2011年4月5日火曜日

普遍化への意志

            普遍化への意志


 – TRANS COMPLEX 情報技術時代の絵画:彦坂敏昭・村山悟郎

                         

         2011年2月6日(日)14:00- 16:00 京都芸術センター

                      吉岡 洋(よしおか・ひろし)


 展覧会タイトルには「情報技術時代の絵画」とある。この表現は「絵画表現の最先端」といったことを連想させるかもしれない。現代生活にはその隅々まで情報技術が浸透している。平面の支持体に絵具で描くという、元来きわめてアナログな行為である絵画もまた、そうした現代的状況に目を背けるべきではない。そうした動機から、彼らは情報技術の基盤であるルールやロジックを、絵画制作の方法論として取り込んでいるのだと、解釈されるかもしれない。けれども、私はそのように理解していない。そのことを説明してみたい。


 モダニスト的な理解において、「絵画」とは究極的にはひとつのメディウムである。「絵画」からその歴史的・文化的な偶然的側面を除去してゆくと、純粋なメディウムとしての「絵画」が析出される。その純粋化の試みは1950年代の抽象表現主義(Abstract Expressionism)において頂点に達した。その後は、メディウムの複合化が進行する。そして「絵画は死んだ」(もともとは19世紀フランスのアカデミーの画家ポール・ドラローシュ[Paul Delaroche, 1797-1856]が写真の登場に対して述べた言葉)とも言われたが、そんな簡単なことではない。絵画は1980年代には「新表現主義(Neo-expressionism)」として復活する。また2005年にサーチ・ギャラリーは「絵画の勝利(Triumph of Painting)」を開催する。


 現代美術というシステムは、放っておくとコンセプチュアルなものが暴走する傾向がある。その中にあって絵画は、直接的な視覚体験を回復させるものである。だがそうした絵画とは、もはやモダニズム的なメディウムの純粋性の探求ではない。絵画に限らず、メディウムの固有性が意味を失った現代的状況は、ロザリンド・クラウス(Rosalind E. Krauss, 1941-)の言う「ポスト・メディウム」(”post-medium”)という概念で一括される。こうした状況下では「絵画」とは、ある作品がたまたま制度的に分類されるラベルにすぎないものにみえる。どのような作品の中にも複数のメディウム(つまりメディア)が並存しており、したがってある意味で、すべての芸術は「メディア•アート」なのだとすら言えるかもしれない。


 情報技術との関係に注目してみよう。情報技術を通常の意味で芸術表現の手段とするのが(普通の、狭い意味での)「メディア•アート」である。それに対して彦坂・村山作品はいずれも、情報技術に関わる論理的手続きを用いているが、「メディアアート」ではない。彼らにとって、その作品が「絵画」であるということは、本質的に重要なのである。だがそれは、「ポストメディウム」以前の、モダニスト的な純粋メディウムへの回帰でもなければ、現代美術というシステム内部において、視覚表現の直接性を回復する安全弁としての「絵画」でもないように思える。では、それらが「絵画」であることの意味は何か?


 私たちは今、絵画を「メディウム」や歴史的に形成されたカテゴリーとしてではなく、むしろ「描く」という人間の原初的行為や、図像的なものによる世界認識一般にまで拡張して考えることができるのではないだろうか。絵画の近代的意味を突き抜け、そうした人類学的なスケールにまで絵画を普遍化すること — そこに情報技術と芸術との真の関わりがあると思える。この意味での絵画は、ヴィレム・フルッサー(Vilem Flusser, 1920-1991)の言う「テクノ画像(techno-image)」に通じるものである。芸術にとっては情報技術それ自体が重要なのではない。本展示「TRANS COMPLEX」において作家達が関心を持っているのは情報技術そのものではなく、「セル・オートマトン」のような、単純なルールの反復によって予測不能の複雑なパターンを生み出す手続きである。複雑系科学は「自然」や「生命」についての理解を刷新することを通して、芸術や人文学にとっても重要な洞察を与えているのである。

2010年12月22日水曜日

20_村山悟郎→

彦坂くん

 どうもです。だいぶ、展覧会も近づいてきましたね。チラシのデザインが何とか決まってホッとしました。あとは自分達の作品の制作と運搬と展示ですね。
トークイベントについても、どのような内容にするか吉岡洋さんと相談しているところです。
 それとTRANS COMPLEXのカタログを京都芸術センターでの展覧会の後に出版する予定です。そこでは僕の作家論/批評を中島智さん(芸術人類学・武蔵野美術大学/慶応義塾大学兼任講師)にお願いしました。中島さんとの対話も先日から始めています。

 この往復書簡がいろいろと関わってくださる方とのきっかけになっています。これからもガチで書いていきたいと思ってますので、よろしくです。前回の書簡で、彦坂くんもDEXTER DALWOODの6つの質問に回答してくれましたね。そこでとりあえず、彦坂くんの回答に触れる前に、僕も回答を表明しておきたいと思います。その上で、気になった箇所は質問し合ったりするのも良いでしょう。凄く長くなってしまって申し訳ないですが、何卒お付き合いください。

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DEXTER DALWOOD から村山への6つの質問の回答


1: What do I want to get out of being in Chelsea.

  チェルシーカレッジMAファインアートコースで学ぶことから何を得たいと思うか?

 私は、 "生物としての人間" の普遍的な行動や現象を作品として対象化したいと考えている。
普遍的な行動に対する関心は、国籍といった枠やコンテクストには左右されないものである。まさに世界中で共有可能な問題意識といえる。
それを作品として成立させる為には、世界中のあらゆる人々に理解される可能性を持たなければならない。
 その為に、このチェルシーカレッジの国際的な風土はとても有用と考えられる。なぜなら、国際的な学びの場で制作し発表することは、その評価や批評のあり方、作品に対する疑問の立て方などについて触れることでもあるからだ。それは自身のこれまでの価値体系のみに依拠しない、相対化されたコンセプトを身につける機会につながるだろう。チェルシーカレッジの皆さんと作品に関して多くの批評的応答を展開してゆきたい。


 2: Why do I weave the canvas and prime sections.
  なぜ、キャンバスを織り、下地を施すのか?

 人間の普遍的な行動を考えるには、「学習」のプロセスを研究することが有効である。
 また、そもそも私の美術における専門分野は絵画であるので、ひとまずの制作のテーマは「 "絵画を制作する" という行動における学習のプロセスとは何か?」となる。「学習」とは、簡単に言えば "行動の変化について" であり、そして「変化」は「時間」を含む概念である。

 「行為」と「環境条件」

 人間のある「行為」は、その「環境条件」との関係のうちに成立している。
 例えば、子供がどこかに落書きをする時のことを考えてみよう。もしアスファルトのような固い地面に落書きをするのであれば、チョークのように少し柔らかい描画材料を用いるだろう。しかし、もし地面が
柔らかい土であれば、固い木の棒を使う。つまり、その環境に合わせて、行為や道具を調整し、順応しようとしているのである。
 また、環境に対しても働きかけて、その様相を変化させることができる。描いた内容がより視認しやすいように、砂を退けたり、より平滑な面を作ろうとしたりすることによってである。
 そうして人間の「行為」と「環境条件」の間には、その行為がより成されるために、相互に作用しあう関係を見いだすことができる。ただし、ここで言う「環境条件」とは、今まさに行われている「行為」との関係の中でも、その行為主体にとって認知可能であり、後に操作、整備されうるようなものとして考えている。(後にオートポイエーシスシステムにおける『環境』という語が登場するが、これとは峻別して考えてほしい。)また、その「環境条件」の操作が、「行為」にとって良い結果をもたらすか、否かは、「行為」の事後的にしか判断できないものでもある。

 絵画制作においても、この「行為 - 環境条件」の相互作用のプロセスが学習を巡って見いだされうる。キャンバスを作って、そこに描く、という以下の図のような支持体形成と描画行為の往復がそれにあたる。


                キャンバス「A」を作る

                  ↓

                「A」に描く

                  ↓("「A」に描く" の結果をフィードバック)

             キャンバス「A'」を作る
               
                  ↓

                「A'」に描く


 
フィードバック

 キャンバス「A'」を作るとき、「Aに描く」という経験を踏まえて、「次にどのようなキャンバスを作るか?」というフィードバックが発生する。抽象的にいえば、これまでの状況を維持するか、何らかの変化を要請するか、である。具体的いえば、キャンバスのサイズや比率、表面の平滑さの度合いや描画材に対する吸収率などの変更、維持が考えられる。
 そしてある変更/維持が加えられたキャンバス「A'」に対して、「A'に描く」の行為は
順応的に再度形成されるのである。このような「行為 - 環境条件」の相互作用が、時間とともに連続的に繰り返され、循環し、自己修正的なプロセス(学習)が発生すると考えられるのである。

 作品の組織化

 この考え方を基本にして、「ペインターが絵画を制作する」という行動における変化を、絵画の素材を用いながら作品として組織化する。前述の相互作用は基本的に、「環境条件」→「行為」→「環境条件」→,,, というような往復的な時間を含む概念である。
 紐を織ってキャンバスを作るという行為は、この作品が持つ時間の方向性、すなわち「学習の進行方向」を示すのに重要な役割を果たす。紐を任意のコードに沿って付加的に織り上げていくことによって、作品に時間軸を形成できるからである。独自に設定した '織り' のコードによって、随時、描画領域を形成し、その上に描画行為を実行してゆく。
作品を詳しく見てもらうとご理解いただけると思うが、織られたキャンバスには無数に区画され、文節された描画領域がある。これを「段/STEP」と呼んでいる。この「段」が、通常の絵画でいえば一枚のキャンバスに対応している。


       「Aの段を織る」→「Aに描く」→「A'の段を織る」→「A'に描く」→,,,


 
 
'織り' のコードによって、この「段」を付加的に織り上げ、連ねてゆく。そして「段を織る」→「その段に描く」を繰り返してゆくのである。この'織り' のコードでは、さらに「段」の高さと幅を任意に調節することができる。
 例えば、横糸の
'織り' のコードで「段」の高さを調整する。横糸は制作開始当初は一本である。それを縦糸に往復させながらキャンバスを織りあげてゆく(平織り)。横糸を織る際には、紐の長さに制限があるので、紐が途切れる。よって、その都度に新たに結び付けなければならない。この時、横糸の本数を任意に選択して増減させることが出来、その本数の往復分が「段」の高さに相当するように、コードが設定してある。
 その横糸本数の選択のコードは以下のように表すことができる。Xが前段の横糸の本数、X'が次段の横糸の本数。任意に選択した横糸aの本数を2倍に、残りの横糸bを0本にする(結んで閉じてしまう)。横糸の総本数の2倍(往復分)が「段」の高さになる。このコードでは最大で前段の倍の面積の次段を形成することが可能。

              X=a+b → X'=(a×2)+(b×0)

 このコードによって、「段」の形成のつど、その面積比を調節し、「描く」へのフィードバックを発生させることが出来る。それによって「行為 - 環境条件」の相互作用、自己修正的なプロセス(学習)が、一つの作品内に発生するシステムが組織化されているのである。


 絵画のロジカルタイプ

 時間発展を含む二つの組織、貝殻模様の生成のような有機構成と、この作品の生成プロセスを比較してみて、その性格の違いを考えてみたい。
 貝殻は、殻本体とその表面に現れる模様とが、同時に、かつ一元的に生成されながら時間とともに成長してゆく。殻本体は炭酸カルシウムの結晶とそれをつなぎ合わせる糊のような役割を果たすコンキオリン(主な成分はタンパク質、生体色素を含む)からなっている。成長とともに新たな部分が分泌・付加されながら大きくなっていく。その時、糊の役割を果たしているコイキオリンに、生体色素の一種が緊密に結合して分泌されており、同時に模様を生成しているのである。

 一方、この作品の生成は、「絵画」を制作する「行為 - 環境条件」の学習プロセスを対象化しており、それとは大きく異なる点がある。それは、最初に描かれる領域がキャンバス(「段」)として区切りとられ、そこに描画するという、二段階の論理階型(ロジカルタイプ)の異なるプロセスの往復を持っているということである。
 まず、絵画にとって「キャンバス」と「それが表象する内容」とは、
論理階型が異なる。「劇場」と「そこで演じられる劇が表す内容」のようにである。「絵画」という集合から導き出される形式と、一つの要素である個別の絵画が表す内容が、混同されてはならないからである。それはラッセルとホワイトヘッドの論理階型理論 (「数学原理」1910-13)の公理に基づいている。
 
 その理論とは以下のようなものである。


「要素の集合は、要素それ自身のタイプ(階型)とは異なるタイプ(階型)からなる。
 集合は要素ではない:1つの要素は集合ではない、
「すべての集合の集合」や同様の構造を語ることはできない。」



 例えば、いま世界中に存在するあらゆる絵画からなる集合を考えてみる。我々が普段「絵画」と呼んでいるものはすべてこの集合の要素である。だが、その集合それ自体は絵画ではない。同様に、ある特定の絵画は '絵画の集合' ではありえない。ひとつの絵画と、'絵画の集合' とは、ふたつの違ったレベルのタイプ(階型)に属す概念なのである(集合の方が高次のレベルである)。この公理に違反したときパラドックスが発生する(ラッセルのパラドックス)。有名な例に「エピメニデスのパラドックス」がある。

 また、G.ベイトソンはその著「精神の生態学」(1972)で、「学習」の概念にこの理論を適用することを提案している。以下の三段階の論理階型に分けて「学習」を捉えることを提案したのである。


・ベイトソンの学習理論
(モリス・バーマンによる要約より引用「デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化」(1981))
 
 <学習Ⅰ>:
  個々の具体的問題を解決すること。
  ※(ベイトソンによる具体的な例示)
  「慣れ」の現象。学習の古典的条件づけ、道具的条件づけのケース。"完成された" 学習の消失。

 
 <学習Ⅱ>:
  学習Ⅰの速度の漸進的変化。学習Ⅰにおける問題のコンテクストの性質を理解すること。
  ゲームのルールを理解すること。パラダイム形成と言っても同じである。

 
 <学習Ⅲ>:
  ある人物が、自分の持っているパラダイムすなわち学習Ⅱが、
  実は恣意的なものにすぎないことを突如悟る体験。
  その結果その人物は、人格の根本的変容を体験する。



 絵画を制作するという行動において、「キャンバスを作る」と「描画する」は、これもまた相互にとって異なる論理階型に属している。この二つの行為にとっての<学習Ⅰ>とは、それぞれの行為に '慣れる' というような変化を指している。しかし、ここまで述べてきたように
、この二つの行為の関係を、行為が相互に循環する自己修正的なプロセスとして見たとき、それぞれの行為は、もう一方の行為にとっての<学習Ⅱ>となりうるのである。
 例えば、『「描画する」がより良く達成される為に何をするべきか?』という命題と、その答えとして「キャンバスを作る」は、「描画する」という行為にとっての<学習Ⅱ>に属する。また、『作ったキャンバスの上にどんな「描画する」を成すべきか?』という問いとその答えも同様である。

 「絵画」の形式と内容、そして絵画制作における「行為」と「環境条件」、それらが二つの異なる論理階型に属しているのである。これは貝殻の生成といった一元的な組織と大きく異なる点である。テキスタイルや織物(ファブリック)も「絵画」のような論理階型の階層を持っていない。形式が内容を生成する。
 下地を施した部分は、この「絵画」としての論理階型の違いを示している。つまり、この作品が "「絵画」について" であることを端的に表しているのである。


 3: Where does the work 'exist' ?
  作品はどこに「存在」するか?

 
プレローマとクレアトゥーラ

 G.ベイトソンが、よく用いる世界の二つのあり様にプレローマとクレアトゥーラというものがある。プレローマとは物理科学で記述されるような種類の規則性を特徴とする物質世界である。一方のクレアトゥーラは、情報(差異)が因子となって作用およぼすようなあらゆるプロセスをさしている。全生物学的・社会的領域を意味する。物理法則にしたがった形態をとりながらも、生命という固有のプロセスにもしたがう領域である。(ベイトソンは、「芸術はまさしくプレローマの世界に属する」と述べている。)

 例えば、あるペインターの描きかけの絵があるとする。そして、次に「どこに」「どのように」筆をおこうかと考えるときを想定してみよう。
 ペインターはこれまでにその画面でどのような仕事を積み上げてきたかというコンテクストを、当人として唯一知っており、また、その絵画制作において他者とはことなる*位相に「存在」している状態にある。そしてペインターは、それまでのコンテクストと、その時の制作の状況から次の一手を描くための情報をその人の特有の理(リーズン)によって知覚する。(これがその人の位相であり、この情報の知覚のあり方がその個体を大きく性格付ける。制作のコード、文法。)
 そして、メディウムという物質的な素材を媒介にして、プレローマの世界の諸条件:重力などの物理法則に従いながらも、絵に次の一手をしかけてゆくのである。このときプレローマに '重なり合って' 「ペインター × 絵」という位相、クレアトゥーラが立ち上がってくる。こうして絵画ができてゆくプロセスは情報を知覚する主体(システム)を含んだ透明なクレアトゥーラとして、物理世界(プレローマ)とは同一次元に「存在」せず、'重なり合って' 「存在」している、と見るのである。

 「学習」はどこに存在するか?

 また、これと同様に「学習」も、物理世界(プレローマ)に物体として「存在」しているわけではなく、クレアトゥーラとしてプレローマに '重なり合って' 「存在」していると考える。
 以前にもこの往復書簡で、「動的なサイト」:場における作品の動的な在り方、「システム - 環境」:システムの現象論的存在、でシステムの存在の様態について述べてきた。システムは世界から自らを区切り取り続けることで、その位相学的内部に「存在」している。
 「学習」もクレアトゥーラであると考え、マテリアルを媒介にしたメディウムとして、物理的な空間に位置を区切り取りながらも、同時に、そのシステムの知覚系によって秩序だったネットワーク領域を形成しつづけ、そこに「存在」している、と考えるのである。
 この領域のことをオートポイエーシスでは「*位相学的領域」と呼んでいる。このオートポイエーシスシステムの作動中においては、システムが世界から位相学的内部を形成し続け、その外部を『環境』と呼ぶ。(先ほどから述べている「環境条件」:操作されうる行為の環境条件という言葉とは意味が根本的に異なるので『環境』とくくる。)

 展示における「存在」

 実際の展示に於いては「ホワイトキューブ」と呼ばれる特殊な展示空間に「存在」することになる。これまでの美術の歴史的背景、コンテクストを有する、美術的価値体系に依拠する空間である(これについてはQ5を参照のこと)。
 また壁や床といったプレローマの世界の諸条件によっても、作品の様相は変化するだろう。そこで、垂直壁面というプレローマの世界の条件において、クレアトゥーラの私の作品生成プロセスがどのように「存在」するかを検討してみる。それを検討することによって、プレローマに対してクレアトゥーラがどのように '重なり合って' 「存在」しているかが可視化されると思われるのである。

 現時点の私の編んで描く作品には、実壁に対して大きく二つのタイプの「存在」様態がある。
 以下の二つの作品を例示して比較してみる。

「浸透する ドリフトする(2009)」(http://goromurayama.com/works/works_a/works_02.html)
「神の宿る部分(2009)」(http://goromurayama.com/works/works_b/works_02.html)

 「浸透する〜」の方は、スタジオでの制作段階から壁面に直接的に編み付けながら制作されたものである。スタジオの壁から展示空間の壁へ、同様のプレローマの世界の条件のまま平行移動するようにして設置されている。
 一方、「神の〜」は、常にスタジオの床面で制作され、展示段階になって初めて垂直に立ち上げるという '変態' を遂げている作品である。作品生成プロセス(クレアトゥーラ)に、長い時間にわたって垂直下方向にかけ続けられきた重力(プレローマの世界の条件の一つ)が、展示において水平方向から垂直方向へ劇的にズラされるのである。作品生成プロセスにかかる重力とは、柔らかい麻紐の物性や水平面での身体運動など様々に考えられ、それらは複雑に絡み合い複合化している。

 
クレアトゥーラとプレローマの知覚

 ここでこの二つの「存在」様態の比較から見られる差異とはどのようなものか?
 例えば、ドナルド・ジャッドの作品:アルミニウムで作られた立方体が壁面に設置されたもの(スペシフィック・オブジェクト)と、ロバート・モリスの作品:分厚いフェルトが壁面にゆったり歪んだ形をたたえながら垂れさがっているもの、この両者を比較したときの差異、これをイメージしてみてほしい。
 ジャッドの作品は、軽く硬質なアルミニウムの素材で、丈夫に組み上げられた立方体の形態である。そのため、これが壁面に設置されても、重力の影響は不可視であり、透明である。
 一方、モリスの作品は、分厚く柔らかいフェルトを用いて、壁面に設置し、重力の影響を強く可視化する作品様態になっている。ここでの比較で知覚されるのは、素材やその構成によってそれらが受ける垂直壁面での重力の影響の差異である。
 しかしながら、「浸透する〜」と「神の〜」の比較で見いだされるのは、単に重力下における物性や構成の差異ではない。クレアトゥーラがプレローマの世界とどのように '重なり合って' 「存在」しているか、そうでないか、その差異なのである。
 本来の床面から壁面に '変態' した「神の〜」は、いわばクレアトゥーラの死骸といった状態であり、もはや
プレローマの世界と '重なり合って' 「存在」してはいない。一方、水平移動した「浸透する〜」は依然としてクレアトゥーラとして制作プロセスは生き続けており、私がその気になれば展示会場で制作することも可能である。しかし、「浸透する〜」はクレアトゥーラがプレローマにどのように '重なり合って' 「存在」しているかは、透明な状態にある。
 これら両者が比較されると初めて、
クレアトゥーラがプレローマに '重なり合って' 「存在」しているか、そうでないか、その差異が知覚されるのである。そして、その差異こそが、普段は透明化しているクレアトゥーラがプレローマの世界に '重なり合って' 「存在」していることの知覚であり、それが展示において可視化されるということなのである。


*位相(言語学):
日本言語学において用いられる。その言語を、どういう集団がどういう場面で使うかによって異なる、言語の様相。
*位相学的領域(the topological domain):
バレーラ/マトゥラーナが「オートポイエーシス」(1980)で示したオートポイエーシス・システムの定義に登場する語。
システムが「存在」する領域についての表現。ここではこの言葉に対する自分の解釈を書いた。



 4: If the painting looks ornate or decorative,
   relating to Folk Art is that a problem?
  あなたの絵画がフォークアート(プリミティブアート)と関係しながら、
  飾りたてるように、あるいは装飾的に見えるとしたらそれは問題か?

 本来、民俗的なモチーフは私の意図するところではない。むしろオートポイエーシスといったシステム論や、生物学的な有機構成を参照しながら、人間の学習のプロセスを作品化することが主要なコンセプトである。学習とは "行動の変化ついて" である。
 この作品の表面の描画されたパターンは、連続性の中に差異を生み出し、時間発展とともに変化を現出してゆく。インドなどのフォークロイックな作業と内実は大きく異なり、装飾的なパターンが反復され、それらが表象されるのではない。この点を強調しておきたい。しかし仮に、学習プロセスの対象化と、民俗的な容姿が関係して見えるということであれば、それは結果的には大変興味深く、今後検討する価値があるようにも思う。
 ただ実際問題、素材の変更や、紐を編む部分を無くすことによって、民俗的な雰囲気は相当程度抑えることができる。「織る」代わりに、ドローイングによって描画領域を指定しながら、壁面に直接描画する方法を実践したかぎりでは、そのように思われる。


 5: Conceptually where does the work fit in terms of paintings recent history?
  コンセプト上、その作品は近年の絵画史においてどの地点に位置するか?

 絵画史との関係

 一つの絵画史の源流を起点に、それとは全く異なる新たな科学の認識論に基づいて、「行為 - 環境条件のシステム」として自己組織化する絵画を提示する。
 その起点には、1968年フランスのシュポール/シュルファス(Support / Surface)や1960年代アメリカのミニマリズムの作家達 Sol LeWitt (1928 - 2007), Robert Ryman (1930-), Frank Stella(1936-)のような絵画と、その素材、形式の純粋化がある。ここでは絵画の支持体や形式に焦点が置かれ、それを作品として対象化するような諸動向が見いだされる。「絵画とは何か?」という問いに対して、支持体や形式といった観点から答えが与えられたのである。しかし、ここにはまだ依然として、主体と客体、あるいは作家と作品といった切断があり、行為というパースペクティブは導入されていない。

 アートとサイエンス

 ところで、ある時代の科学の認識論と絵画が結びついた例は絵画史の中でもいくつかある。
 例えば、かつて19世紀末にジョルジョ・スーラを初めとする新印象派(neo-impressionism)は、ゲーテの色彩論に依拠し、その時代の科学と結びつきながら、その認識論を筆触分割(点描)という方法論として実践していた。私もそれと同様に、この時代の科学と関係しながらその認識論を作品として現し、行為というパースペクティブを作品に導入するだろう。
 具体的には以下のような1980年前後に登場してきた全体論的世界観に依拠した科学の諸理論や書物がある。
G.ベイトソン「精神の生態学」(1972)、「精神と自然」(1979)、J.ギブソン「生態学的視覚論」(1979)、バレーラ/マトゥラーナ「オートポイエーシス」(1980)、そして、アメリカで始まった複雑系科学や人工生命の研究。
 これらは80年代から起きてきた新しい科学であるが、90年代半ばには積極的に日本でも翻訳され、広く一般にも紹介されるようになった。J,ギブソンの概念は「アフォーダンス 新しい認知の理論」佐々木正人(1994)、オートポイエーシスは「オートポイエーシス 第三世代システム」河本英夫(1995)などがあげられる。また1996-7年には複雑系を紹介する書籍が多数出版されている。私はこの時期以降を中、高、大学生として過ごし、これらに強く影響を受けている。

 全体論とは、要素に還元されない系であり、全体の振る舞いとして世界を捉えようという世界観である。これは対象を要素に分解して理解しようとする伝統的な近代科学の還元主義に対立する。全体論的世界観の始まりの一つは、量子力学の「不確定性理論」や「観測問題」によって、その観測対象に対して影響を及ぼさない観測が原理的に不可避であることが示され、主体と客体を分離する「近代的な客観」に疑問が投げかけられたことによる。

 また、J.ギブソンは「生態学的視覚論」(1979)で、
主体と環境の関係を新たに提起した。彼の新しい概念「アフォーダンス」とは、生物のある行為を誘発するような、モノや環境のある特定の状態や条件、性質のことである。
 例えば、ある高さのバーを思い描いてもらいたい。それを人が前にしたとき、「またぐ」だろうか、「くぐる」だろうか?このとき、「またぐ」か「くぐる」かという行為を "アフォード" (誘発)するバーの高さの値は、その人の身体的な特徴と関係しながら、一定の閾値として導きだすことが可能なのである。ギブソンは行為と環境の関係について、人がそのつど判断して行為を選択しているのではなく、あくまで、その行為を引き出す情報が環境に存在していると主張するのである。

 私はこのような理論や書物に依拠して、「行為 - 環境条件」の相互作用というように、切断のない全体として捉えるパースペクティブを、絵を描く主体においても適用したいと考えている。そのような全体論的な観点においての「絵画」には、もはや対象を描く主体と客体という分離した関係は意味を成さないだろう。
 そうしたパースペクティブを踏まえて「絵画を制作する」とは何か?という問いを立て、「行為 - 環境条件のシステム」として自己組織化するのである。


6: How can I develop and more the forward?
  どのように発展し、前進することができるか?

 自らの作家としての、また現段階の作品の、発展と前進をどのような方法によって導いてゆくか。
 それは大きく二つの方法によって成されると考えている。

1:自らのこれまでの領域での経験や知識に留まらないように、領域横断的に試行錯誤し経験する。

 生物の進化とは突然変異を含むランダムで確率論的なプロセスである。集団遺伝学では、仮にある個体群において、個体差がなく、均質で遺伝子の構成に多様性を持たない場合、進化のプロセスが発生しないことが認識されている。どんなに新しいものも、ランダム性、偶然から生まれる。個体群の中に多様性が存在しなければ、自然選択の対象となるべきいかなる新しい行動も遺伝子も器官も生まれない。どんな種の個体群も、野生の状態では、その遺伝子の構成にきわめて多様な個体差が見られるのである。そして、そうした不均質こそが、変化の可能性を生み出す条件である。作品制作においてもこのランダム性(行動の多様性)が重要であると考えている。

 "新しさ"と"強さ"

 作品において、"新しい" と "強い" は意味が異なる。
 "新しい" というのは、"未知である" ということと同義であるとみなすとして、であるならば、既存の表現形態には回収されえないはずである。「未知なもの」が創造される過程には、「未知である」がゆえに、必ずある種のランダムさ(行動の多様性)が必要になってくる。多様な行動群の中から、ある行動とある行動が偶然的に組み合わせられて、既知の形態に回収されない「未知さ:新しさ」が生まれるのである。ごく初期の進化の過程で起こったカンブリア爆発を思い浮かべるとよい。
 しかし当然、この "新しい" が全て "強い" とは限らない。むしろ「 "新しい" しかし "弱い" 」ものがたくさん生み出され、そして自己の判断や社会の評価という環境において、強化あるいは淘汰されていく。つまり、そうしたプロセスを経て、生き残るもの、それが "強い" ものである。この試行錯誤は、「"新しい" かつ "強い" 」ものを生まれてくるために欠かすことができないと考えている。ただし、自身のキャパシティに合わせて行動の領域を注意しながら設定する必要はある。その上で意図的に行動領域を広げてみることは大事である、と私は強く信じる。

 具体的には、ビデオ作品など他メディアでの制作、論文、キュレーション、科学などの他領域の人達との対話などを実践してゆく計画である。

 京都芸術センターでは、自分の企画・キュレーションで展覧会「TRANS COMPLEX」を開催する。
 この展覧会は彦坂敏昭と村山悟郎のグループ展で、ここまで説明した新たな認識論を背景にしている。複雑系科学者の池上高志氏と美学・芸術学の吉岡洋氏を招いてシンポジウムも開催する。これらを通して、鑑賞者の方々と共に多くの刺激ある思考を紡いでゆきたいと考えている。
 そして様々な分野の方々との対話を通して、自分と他者の思考の差異を認識してゆく作業を進める。この彦坂敏昭くんとの往復書簡もそれにあたる。バイリンガルの展覧会カタログも発刊予定。カタログでは私の作家論/批評を中島智さん(芸術人類学・武蔵野美術大学、慶応義塾大学兼任講師)にお願いする。中島さんとの対話も始めたところである。
 このような実践的なプログラムに身を浸すこと。そしてイギリスで作品および理論を研鑽し発表すること。出来るだけ多くの地域、分野、ジャンル、メディアを横断してゆきたいと考えている。ビデオ作品は友人でありアーティストの小沢祐子さんとのコラボレーションとして構想し始めたばかりであり、まだ対話しながらアイデアを練っている段階にある。

2:自身と他者からのフィードバックを作品に反映させること

 デクスターから指摘を受けた作品の具体的な方向性について。

・作品の民俗的な容姿の意味を検討する、あるいはそれからの脱却を目指す。
・自分と同様の思想的背景を持つアーティストをメディア・領域を問わず広くリサーチする。

 自分としてこれから検討したい作品の発展形。

・建築("建築する" という行為。建築空間ではない。)との関係を動的に思考すること。
 現在の作品のさらに上位の論理階型に位置する"何か"との競合、キュレーションもその一つ。
 有機的な「建築と行為のシステム(作品)」の関係を探る、など。

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 長くなりましたが、ひとまず以上です。読んでくださった方ありがとうございます。未編集な部分、冗長な部分など多々あると思われますが、ご容赦ください。それとベイトソンの学習理論について説明不足ですので後ほど補足したいと思います。何か不明な点がありましたらご指摘いただければ幸いです。

村山悟郎


2010年12月16日木曜日

19_彦坂敏昭→

かなり久しぶりの投稿です。

前々回の村山さんの投稿で、森田浩彰さんの展覧会で見た
時計の作品を思い出しました。テイストは違いますが構造は似ています。
同じような体験をしたのですごく心に残っています。
http://www.art-index.net/art_exhibitions/2008/05/clockwise.html

最近は空回りと停滞を繰り返していて時間を浪費していました。
ようやくチラシのデザインが決まりそうですね。少しほっとしています。
アートワークご苦労様です。
展覧会用の制作も順調というか年内に終わらせないといけない範囲が
少しずつ見えてきたので落着いています。

さて、僕個人の今の状況を整理すると共に、今回の展覧会(TRANS COMPLEX)を実現するべく、元々は村山くん宛てに用意された6つの質問に前回までの投稿でかぶる部分もあるのでなるべく簡潔に答えてみたいと思います。と、いろいろ思いを巡らせたのですが良い意味で自分の欠点をさらすことになっています。以下おつきあいください。



Q1: What do I want to get out of being in Chelsea.
  (チェルシーカレッジMAファインアートコースで学ぶことから何を得たいと思うか?)

A:チェルシーカレッジで学ぶというよりは、これから独学で何を意識的に学ぼうかとあれこれ考えました。基本的なことですが「みること」について総合的に学んでみようかと。。それは、「作品が他者からどのように見られるのか」や「どうようにすれば意図した効果を作品が発揮することができるのか」と直接的に繋がるものでなくて、あくまでも描くという行為・技術に付随するものとしてです。
作品は個々の美術家により、その制作過程において様々な選択や決断を下されることで立ち現れてくるものです。描く技術はまさにその選択や決断において各主体がどのような正当性を制作の現場に持ち込むことができたのかに基本的には集約させることができると考えています。
過程において拠り所となる正当性の違いはそのまま経緯となり、最終的な形を決定します。プロセス内は川の流れの様に流動性があって、その流れにどのように櫓をさすかが船頭であれば評価のポイントになります。どのような櫓を使い、どんなタイミングで、どのような力加減で櫓をさすのか。そこでは経験の蓄積が不可欠です。様々な状況と経験を照らし合わせることで、いつの間にか技術として身に付きます。
絵画の場合も「みること」の経験を過去の美術家の経緯からも総合的に参照し、また様々な学問を総動員させ「みること」の幅を広げ技術として養っていく必要性を感じています。
さらに別の例をあげてみます。大学に通っていた際に「(自分の作品を)つくる前に(他人の作品を)みましょう。」とか「(他人の作品を)みる暇があったら(自分の作品を)つくりましょう。」という冗談(?)をよく耳にしましたが、まじめにこれに答えるとすれば「(自分の作品を)つくったら(自分の作品をしっかり)みましょう。」というのが少ない経験ながら正しいような気がしています。作品制作を循環的なものにするには結果としての作品をしっかりと見つめ、その弱点や欠点を見極める必要がでてきます。
つまり少なくとも2つの段階で「みること」の技術が制作においては問われていると考えていることができます。1つはプロセスの中で与えられる選択肢に対しより良い判断を下すための技術として。2つ目は作品制作を実り豊かな循環性のある一連の行為になるよう判断を下するためのフォーラムのような機能・技術として。基本的すぎることかもしれませんが大切だなぁとつくづく感じますので「みること」を下支えをするための多くのことを学びたいです。


Q2:Why do I weave the canvas and prime sections.
 (なぜ、キャンバスを織り、下地を施すのか?)

A:この問いを自分自身に向けるとすれば、なぜ下地に画像を使い、さらにはそれらを加工し使用するのか?という質問になるかと思います。
まず、選んでいる「画像」は特に問題ではなくて、実際に自分で撮った写真もあればインターネット上から拾ってきたものありさまざまです。僕にとっては水質調査のように、大きな湖からビーカーに1杯だけ水を掬った時にたまたま入ってきたその水という感覚で画像を選択をしています。その時に、浅い所なのか深い所かや、夜なのか昼なのか、季節はどうなのかなどの諸条件というかキーワードは必ず設定しています。研究の対象が「自然」から「画像」へ移行しているということなのかもしれないですね。
そして画像を基に絵を描く行為は「なぞる」ことと繋がっており、また画像を加工をしてから使用することは「えらぶ」という行為と繋がっていてとても大切な事柄だと捉えています。
「えらぶ」や「なぞる」行為は、ゼロからイメージを思い浮かべ描く創造性や、模倣性をそのままに抱え描くことへのアレルギーの結果として採用されていますが、ただ単に個人的な感覚だけではなく社会的、あるいは歴史的な背景知識からも抽出しておりその正当性は複雑に絡み合っています。



Q3:Where does the work 'exist' ?
 (作品はどこに「存在」するか?)


A:大原美術館の主催するレジデンスプログラムARKO2009に参加した際に作品批評を沢山遼さんに書いていただいたことがあって、自分がやってきたことに対してすごく前向きな言葉を出していただいたことがあります。作品が複数のパネルからなることに対し沢山さんは「絵画的なスケールを-こういってよければ-偽装してきたのである。」と評してくれました。前後の文脈から指し示すものとは少し違う角度からも前向きな意味で突き刺さるものがありました。ですので、今回の展示ではこの言葉を受けて少しでも作品の「存在」について前進できればと考えています。
「偽装」という言葉を孕んだ「絵画的なもの」が、例えば食料供給のために野菜や穀物を作る農家の仕事が、結果的に「その地域の歴史文化の継承」や「美味しいものを食べること」「環境保全」「教育」など多様な社会的役割を担っていくのと同じように、その役柄を演じることで、絵画を「絵画」と「絵画的なもの」へと区別し、さらにその先にある「人間」と「人間的 なもの」や「生命」と「生命的なもの」などの持つ問いへと意識を押し広げることのできる「絵画的なもの」の「存在」の在り方に配慮したいと考えています。


Q4: If the painting looks ornate or decorative,
relating to Folk Art is that a problem?

  あなたの絵画がフォークアート(プリミティブアート)と関係しながら、
  飾りたてるように、あるいは装飾的に見えるとしたらそれは問題か?


装飾については知らないことが多すぎるのでその言葉の定義も含め勉強してみます。
「装飾」もしくは「装飾的なもの」を通して自分の作品を観ることはとっても必要なことのような気がします。取り急ぎはその通史を学ぶ必要がありますね。鶴岡真弓さんから読んでみます。

【Q5】もいろいろなことが言えてしまう分、明確さが欠けてしまいます。

(未回答あり)

2010年11月19日金曜日

018_村山悟郎→

彦坂くん

 どうもです。
 前回の往復書簡の大部分はクリスチャン・マークレーの展覧会*のレビューになっちゃいましたね。番外編といった感じでしたので、続けてこちらから書かせてもらいます。


 今、ロンドンへ滞在しているのは東京芸大の交換留学制度によるものです。ロンドンではUniversity of the Arts London, Chelsea College of the Arts and Design, MA fine art courseで学んでいます。
 そこで学び始めて一ヶ月弱になります。僕の今期のチューターはDexter Dalwoodというペインターで、2010年のTurner Prizeにもノミネートされている人なんですが、先日11月17日に最初のチュートリアル(スタジオでの面接講評のようなものです。)がありました。
 僕の拙い英語では作品についてまともに話すことができず、それを見かねたDexterは、僕に対して6つの質問を、わざわざ親切にも紙に書いてくれました。後日、返事をするように言い、紙を渡してくれたDexterの、その6つの質問をここで紹介したいと思います。


「Dexterから村山へ6つの質問」


 1: What do I want to get out of being in Chelsea.
  チェルシーカレッジMAファインアートコースで学ぶことから何を得たいと思うか?

 2: Why do I weave the canvas and prime sections.
  なぜ、キャンバスを織り、下地を施すのか?

 3: Where does the work 'exist' ?
  
作品はどこに「存在」するか?

 4: If the painting looks ornate or decorative,
  relating to Folk Art is that a problem?
 
あなたの絵画がフォークアート(プリミティブアート)と関係しながら、
  飾りたてるように、あるいは装飾的に見えるとしたらそれは問題か?

 
 5: Conceptually where does the work fit in terms of paintings recent history?
  コンセプト上、その作品は近年の絵画史においてどの地点に位置するか?

 6: How can I develop and more the forward?
  どのように発展し、前進することができるか?
  



 この往復書簡で、このDexterからの質問にこれから答えてゆきたいと思います。それは、僕がTRANS COMPLEXという展覧会企画で目指すものに必ず符号してくると考えるからです。

村山悟郎




*Christian Marclay "The Clock" (WHITE CUBE GALLERY) 15 Oct—13 Nov 2010

2010年11月6日土曜日

017_村山悟郎→

彦坂くん

 ご無沙汰してます。ロンドンでの生活が始まってから早くも一ヶ月。あわただしく過ごして、この往復書簡に手をつける間もありませんでした。僕の方も、ようやく10月の半ばから作品制作にとりかかり始めたところです。

 
介入

 まず前回の続きですが、理論と実践の関係をはっきりと述べることは、僕にも難しいです。ですが、彦坂くんが「介入」という言葉に託している意味は、僕なりに了解できたような気がします。
 
 作品制作がシステムの作動だとして、その作動のコードを変改したいと願う時、確かに "理不尽な「介入」" と呼べるような働きかけが必要であると思います。

 作品を制作する主体(システム)とそれを変改させたい主体は、我々のような人間の作家の場合、両者は同一の作家主体でありながら、異なる論理階型(ロジカルタイプ)に属していると考えます。このロジカルタイプの違いは、例えば、コンピュータのシステムの作動と、そのコンピューターのシステム自体を変改させる人間が、それぞれ異なるレベルに属している、という構造に近いと思います。
 システムのコード自体の変改は、そのシステムの上位のロジカルタイプに属する主体からもたらされる為に、そのシステムにとって"理不尽"に思えるような「介入」となる、ということではないでしょうか。そして基本的には、その「介入」を根拠づけ、制限するのが理論であると考えますが、それはまた、しばしば"理不尽"に破られなければならない局面がある。すなわちそれが実践ということになると考えます。
 「介入」を巡って、仮定的に理論と実践の関係をそう捉えてみるのはどうでしょう。


 
Christian Marclay "The Clock"

 ところで、ロンドンに来てまだ一ヶ月間しか経っていないですが、様々に思うことはあります。特に日本とイギリスのアートを比較してみて。もう少し精緻にリサーチした上でこちらの現状についてお話したいですが、最初に感じたことを少し書き記しておこうと思います。本筋からはかなり脱線するかもしれないですが、、。

 ロンドンに滞在してから、有名なコマーシャルギャラリーを数カ所は観て回りました。これらが美術館並みの展示空間を保持しており、規模の大きさには驚くばかりです。日本ではごく一部のギャラリーを除いて、スペースはどこも基本的に小さいですから、僕にとっては信じがたい光景です。そしてそこでは基本的にコマーシャルであろうと、展示形態はかなり多様です。一つとても面白い展覧会があったので例にあげてみたいと思います。

 ロンドンの中心地にPiccadilly Circusという場所があります。日本でいうところの銀座のような地区なんですが、そこにWHITE CUBEというギャラリーがあります。僕が行った時には、Christian Marclayというアーティストが"The Clock"という展示をやっていました。これは映像インスタレーションといえる様な形式で、非常に素晴らしい展覧会でした。

 地下の巨大なブラックキューブの展示空間。その正面の壁面にはスクリーンがあり、その前方を囲むようにソファーが置かれている。まるで映画館を模したような展示会場です。
 スクリーンには映像作品が投影されています。映像は、世界中の映画の膨大なアーカイブから、時計が時刻を示しているショットを素材として集めています。(僕の確認したところ、黒沢明監督の作品からもショットが抜き出されていました。)
 それらのショットを、映画の編集やモンタージュの技法を駆使して、巧妙に細かくカットアップしていきます。時刻表示という共通項を持ってはいるものの、元は関係のない、別々の映画のショットが、編集によって繋ぎ合わされ、異系のタイムラインを形成してゆきます。
 形成されたタイムラインには、次々と時刻を表示するシーンが現れ、移り変わってゆきます。そして、なんと驚いたことに、その映像作品のタイムラインが表示しつづける時刻が、展示時のリアルタイムの時刻と厳密に同期しているのです。
 つまり、映像のあるショットに登場する時計が「17:30」と示している時、実際の時刻も同じく「17:30」なのです。映像は24時間あり、循環して再生が可能です。つまりこれは、新しい時計とも呼ぶことのできる作品になっているのです。

 これは、人間の映画鑑賞における時間感覚と、"時計"という時間の定量的計測が、巧妙にリンクしながら、時間の両義的な鑑賞体験を形成する、非常に優れた映像作品だと思います。
 映画を観ている時と、じっと時計を眺めている時とでは、人間の時間感覚は大きく異なります。それは、それぞれの経験刺激の勾配の差によると考えられます。時計をじっと眺めるという行為は、ひどく刺激が均質で単調ですが、映画は高度な編集テクニックを使って刺激的な勾配を形成し、
鑑賞者を惹きつけます。
 この作品では、異なる映画のショットから映像がコラージュされています。ですから、元々のストーリーの意味内容はショットから遊離し、ごく局所的な刺激列のみが抽出され、映画的に再構成されていきます。鑑賞者は、普段の
映画のストーリーを追うような鑑賞体験と重ね合わせながら、しかしマクロな内容の抜き取られた映像の刺激列の波を、ただ心地よく上滑りしてゆくのです。
 そうして、気が付けば十数分が経過しており、ふと現実の時間感覚が喚起されてきます。「今、何時かな?」というような感覚。その時に、二重の「気づき」がもたらされるのです。一つは、自分の時計を確認した時に、実はこの作品がコンテンポラリーな時刻を示しているという事実に対する「気づき」。そしてもう一つは、今まさに自分が鑑賞していた映像作品が、その鑑賞中も時間を刻み、表示しつづけていたという「気づき」です。

 この作品はまた、もう一つ上のレベルの「時間」に対する関係を問いかけているようにも思えます。現代の複雑な社会では、時間は分単位ほどに細かく管理されています。人々はその社会で生活する都合上、「自分がある行動にどの程度の時間をかけてよいか?」を絶えず判断しなければなりません。つまり、個々の鑑賞者は展覧会において、その会場をどの程度の時間で去らなければならないか、それが決まっているということです。現代の社会における「鑑賞」は、そうした時間的制約を"常に既に"負ってしまっていることが、鑑賞体験と共に喚起されるわけです。

 この展覧会を観てショックだったのは、まずは上述の展覧会の素晴らしい内容です。そして、大都市の一等地にあるコマーシャルギャラリーが、このような短期的な販売収入が見込みづらい映像作品の展覧会を、一ヶ月間無料で開催していたことでした。

 ロンドンのアートシーンの背景はもう少し探ってみないと大層なことは言えません。しかし、とにかくこの展覧会が実現されていたのは紛れも無い事実です。アートの内容よりも、それを巡る枠組みに大きな差を感じることを禁じえません。一個一個のギャラリーがほんと信じられないくらいデカイんです。いったいこの大胆さがどこから来るのか?もう少しリサーチしてみたいと思います。

 村山悟郎

2010年10月13日水曜日

016_彦坂敏昭→

村山くん

ロンドンはどうですか?
僕はそろそろこの展覧会のための制作を開始したいと思い、
のそのそと動き出した所です。

「オートポイエーシス 第三世代システム:河本英夫」を
別の科学論の基礎的な本と平行しつつ未だ読み進めています。
僕にはかなり難しい本で3割も理解できていないのですが、
どうにか気合いで第三世代システムの部分までたどり着いたところです。
制作の中で、個人的に信頼し活用してきたシステムの様なものと、
最新のシステム論との差異がもやもやとですが影を表してきたのは
少なからず良い経験になりつつあると感じています。
早くベイトソンも読み始めれればと思いますが。。

「無限後退」について、少し言葉足らずな部分があったかと思いますので、
説明させていただければと思います。
まず僕も理論形成を重視しています。
ですが作品(最終形態)とその理論の整合性については保証していません。
というのも理論が整えば全てか片付くとは思っていないからです。
あくまでも芸術の中での理論形成を重視ししつつも、
そこに個人的で理不尽な介入をすることが必要だと考えています。
つまり、芸術理論は動機付けであって、作品として立ち上げるためには、
前述のように個人的で理不尽な介入により
制作プロセス内の流動性を制御・微調整しつつ、
結果が「自明な結果」を超えていくことを支える必要があると考えています。

そして僕が「無限後退」を面白いと思ったのは、
ただ単に理論が破綻しているという意味によってではなく、
むしろ個人的で理不尽な介入により無限後退しているがゆえに
「作品のありよう」や「作品の抱える問いそのもの」が宙づりに
なってしまっている状態を、作品の持ち得る「効果」として
抱え込むことができないかと思ったのです。
ですので「無限後退」ではなく「無限後退的なもの」
と言うべきだったかもしれません。

おそらく所有権の問題で言えば、動的な線引きより、
どちらも(誰も)所有せず社会的な隙間を作る方向性に賛同したいと考えます。
普通四角いタイルを貼る際にその側面に目地を付けますが、
際限なくタイルを貼ろうとした時にこれが無いと辻褄があわなくなってしまいます。
目地を採用することで柔軟性を保つことができ極端に言えばどんな凸凹の場所にも
タイルを貼ることが出来るのです。
僕の言う「理論」と「介入」もこの「タイル」と「目地」に似ているかもしれません。

ただ、目地には表裏があります。
あらゆるシステム化の果てに、自分自身が選択の主体ではなく、
社会構造のただの結束点に陥れてしまうのではないかという不安を
解消うるためには有効だと考えますが。
ただその分作品制作の流動性が高くなってしまうので、
自分の作品制作途中にどういった状況にあるのかをしっかりと
見極めコントロールする必要がでてきます。

そして、アナウンサーはメディアにおける代弁者という役割を担っています。
「タイル」か「目地」かで言えば「目地」の役割をしているということになります。

次回は少し新しい作品について話がでればと思います。

彦坂敏昭

2010年9月28日火曜日

015_村山悟郎→

彦坂くん

 先日の武蔵野美術大学での僕のプレゼンテーション*に来てくれてありがとう。僕にとってもこの往復書簡は自身の思考を再確認して明確にし、更に展開してゆくことを目指す、とても重要な働きをしています。今後ともどうぞよろしくです。


 
無限後退

 さて無限後退についてですが、彦坂くんの反応は僕にとってはかなり意外なものでした。僕は作品とパラレルに芸術理論も重視しています。その理論的整合性が批評においては徹底して問われなければならないし、それによって作品の美的表面のみに没しない鑑賞が可能だと考えるからです。
 無限後退とは理論的根拠がどこまで遡っても得られない状態です。ですから理論的にいえば、問いの立て方が間違っていると言わざるを得ない。もし、芸術理論を重んじるのであれば、ネガティブな事態です。

 無限後退、それは例えば、所有権の帰属を証明しようとする時におきます。

 所有権の帰属を証明するためには、原始取得の場合を除き、前の所有者から所有権を譲り受けたことの証明を要するとされている。ところが、前の所有者にそもそも所有権が帰属していたことについて争われた場合は、その者がさらに前の所有者から所有権を譲り受けたことの証明が必要になる。さらにその前の所有権が 争われた場合はその前の…と、無限後退に陥ってしまう。(参考:wikipedia「悪魔の証明」)


 つまり、所有権の帰属を証明しようという問いの立て方に問題があるのではないか?
 今、中国と日本が尖閣諸島を巡ってその所有権を主張していますが、これも同じ問題だと考えます。この時に要請されるのは、以前にも指摘しましたが、「動的な場の在り様」ではないか、と考えます。
 つまり、境界線を領域の振動運動として捉えるわけです。境界を確定的に主張するのではなくて、「今年はこれぐらい、来年はこのぐらい」と押し引きで暫時仮定してゆく。「この島は今年は日本のものだけれど、5年後は中国のもの」と、一定期間で統治を交代してゆくような動的な協定です。そもそも境界が揺れているのであれば、その揺れ方を決めてやればよいと思うのです。


 
ニューマンの問題2

 さて、では何故ニューマンの平面に無限後退が起きてしまうのか?
 それは前述の「地」と「図」の問題に加えて、鑑賞者、つまり外部観測者を絵画の展示に導入したものによると考えています。
 先日、川村記念美術館で開催されている展覧会「
アメリカ抽象絵画の巨匠 バーネット・ニューマン(2010年9月4日〜12月12日)を観てきました。当館の目玉の一つである<アンナの光>(1968年)が、普段のニューマンルームではなく、企画展示室に飾ってありました。
 大きな展示室を二つに分割する仮設壁が中央に立てられ、その中心に3mほどの通路が開けています。開けた通路ごしに<アンナの光>の赤い色面が見える。鑑賞者はその通路を通って全体を把握できない状態で、作品へ近づいてゆきます。部屋に入ると、作品全体を一挙に観ることが出来るギリギリの引き位置に壁が立っていて、それを背に鑑賞するようになっています。
 ここにはニューマンの提示しようとした「平面」の為に、鑑賞者を措定し、その動きを制御しようという試みが見てとれます。展示としては酷く暴力的な側面が垣間見えます。
 しかし、人間はまず思い通りの動きはしてくれません。展示室内を能動的に動き回り、自らの鑑賞を自由に形成します。そして、知覚とは差異を捉える作用ですから、「地」と「図」のない平面(全てが差異無く平均、平滑であること)は鑑賞者の知覚と矛盾します。つまり鑑賞者の視点に於いてそのような平面は存在しません。

 ニューマンの展示は「作品と場」という観念的な階層構造のなかに、鑑賞者を押しはめる結果を招いてしまった。
 しかも、その「鑑賞者」とは、「場」よりも更に上位の「社会」という階層に属しています。ですから、「作品と場」という関係に、更に上位の階層構造を引き出す形で、もう一つの無限後退が生じさせてしまったのです。
 鑑賞者は様々な社会的背景を持って、あらゆる場所からどこからともなくやってきます。それらの国籍、背景、文脈、どのような道順でここまで来たか、体調や、前日に観た展覧会の記憶など、いくらでも遡行することが可能です。この自由な鑑賞者に対し「何かを観せる」という企図の困難は自明だと思います。人間の普遍的な知覚に作用する展示はこれを可能にしますが、キッチュに没するという危険性も常に孕んでいます。
 これがバーネット・ニューマンの作品が持つ理論的限界だと僕は思っています。

 そこで僕が考え出したのが「システムと環境」というわけです。例えば「木が生えている」というようなこと。観られることに関係なくそのシステムの知覚系でそこに「在る」というような状態です。一方でそれを美的に鑑賞することも、その生態を観察することも可能なものとして。


ところで彦坂くん
キーワードの「介入」についてもう少し語ってみてくれますか?
アナウンサーという存在も絡めてもらえると嬉しいです。

村山悟郎


*武蔵野美術大学「近現代美術史演習」2010年9月16日