2010年10月13日水曜日

016_彦坂敏昭→

村山くん

ロンドンはどうですか?
僕はそろそろこの展覧会のための制作を開始したいと思い、
のそのそと動き出した所です。

「オートポイエーシス 第三世代システム:河本英夫」を
別の科学論の基礎的な本と平行しつつ未だ読み進めています。
僕にはかなり難しい本で3割も理解できていないのですが、
どうにか気合いで第三世代システムの部分までたどり着いたところです。
制作の中で、個人的に信頼し活用してきたシステムの様なものと、
最新のシステム論との差異がもやもやとですが影を表してきたのは
少なからず良い経験になりつつあると感じています。
早くベイトソンも読み始めれればと思いますが。。

「無限後退」について、少し言葉足らずな部分があったかと思いますので、
説明させていただければと思います。
まず僕も理論形成を重視しています。
ですが作品(最終形態)とその理論の整合性については保証していません。
というのも理論が整えば全てか片付くとは思っていないからです。
あくまでも芸術の中での理論形成を重視ししつつも、
そこに個人的で理不尽な介入をすることが必要だと考えています。
つまり、芸術理論は動機付けであって、作品として立ち上げるためには、
前述のように個人的で理不尽な介入により
制作プロセス内の流動性を制御・微調整しつつ、
結果が「自明な結果」を超えていくことを支える必要があると考えています。

そして僕が「無限後退」を面白いと思ったのは、
ただ単に理論が破綻しているという意味によってではなく、
むしろ個人的で理不尽な介入により無限後退しているがゆえに
「作品のありよう」や「作品の抱える問いそのもの」が宙づりに
なってしまっている状態を、作品の持ち得る「効果」として
抱え込むことができないかと思ったのです。
ですので「無限後退」ではなく「無限後退的なもの」
と言うべきだったかもしれません。

おそらく所有権の問題で言えば、動的な線引きより、
どちらも(誰も)所有せず社会的な隙間を作る方向性に賛同したいと考えます。
普通四角いタイルを貼る際にその側面に目地を付けますが、
際限なくタイルを貼ろうとした時にこれが無いと辻褄があわなくなってしまいます。
目地を採用することで柔軟性を保つことができ極端に言えばどんな凸凹の場所にも
タイルを貼ることが出来るのです。
僕の言う「理論」と「介入」もこの「タイル」と「目地」に似ているかもしれません。

ただ、目地には表裏があります。
あらゆるシステム化の果てに、自分自身が選択の主体ではなく、
社会構造のただの結束点に陥れてしまうのではないかという不安を
解消うるためには有効だと考えますが。
ただその分作品制作の流動性が高くなってしまうので、
自分の作品制作途中にどういった状況にあるのかをしっかりと
見極めコントロールする必要がでてきます。

そして、アナウンサーはメディアにおける代弁者という役割を担っています。
「タイル」か「目地」かで言えば「目地」の役割をしているということになります。

次回は少し新しい作品について話がでればと思います。

彦坂敏昭

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