2010年11月6日土曜日

017_村山悟郎→

彦坂くん

 ご無沙汰してます。ロンドンでの生活が始まってから早くも一ヶ月。あわただしく過ごして、この往復書簡に手をつける間もありませんでした。僕の方も、ようやく10月の半ばから作品制作にとりかかり始めたところです。

 
介入

 まず前回の続きですが、理論と実践の関係をはっきりと述べることは、僕にも難しいです。ですが、彦坂くんが「介入」という言葉に託している意味は、僕なりに了解できたような気がします。
 
 作品制作がシステムの作動だとして、その作動のコードを変改したいと願う時、確かに "理不尽な「介入」" と呼べるような働きかけが必要であると思います。

 作品を制作する主体(システム)とそれを変改させたい主体は、我々のような人間の作家の場合、両者は同一の作家主体でありながら、異なる論理階型(ロジカルタイプ)に属していると考えます。このロジカルタイプの違いは、例えば、コンピュータのシステムの作動と、そのコンピューターのシステム自体を変改させる人間が、それぞれ異なるレベルに属している、という構造に近いと思います。
 システムのコード自体の変改は、そのシステムの上位のロジカルタイプに属する主体からもたらされる為に、そのシステムにとって"理不尽"に思えるような「介入」となる、ということではないでしょうか。そして基本的には、その「介入」を根拠づけ、制限するのが理論であると考えますが、それはまた、しばしば"理不尽"に破られなければならない局面がある。すなわちそれが実践ということになると考えます。
 「介入」を巡って、仮定的に理論と実践の関係をそう捉えてみるのはどうでしょう。


 
Christian Marclay "The Clock"

 ところで、ロンドンに来てまだ一ヶ月間しか経っていないですが、様々に思うことはあります。特に日本とイギリスのアートを比較してみて。もう少し精緻にリサーチした上でこちらの現状についてお話したいですが、最初に感じたことを少し書き記しておこうと思います。本筋からはかなり脱線するかもしれないですが、、。

 ロンドンに滞在してから、有名なコマーシャルギャラリーを数カ所は観て回りました。これらが美術館並みの展示空間を保持しており、規模の大きさには驚くばかりです。日本ではごく一部のギャラリーを除いて、スペースはどこも基本的に小さいですから、僕にとっては信じがたい光景です。そしてそこでは基本的にコマーシャルであろうと、展示形態はかなり多様です。一つとても面白い展覧会があったので例にあげてみたいと思います。

 ロンドンの中心地にPiccadilly Circusという場所があります。日本でいうところの銀座のような地区なんですが、そこにWHITE CUBEというギャラリーがあります。僕が行った時には、Christian Marclayというアーティストが"The Clock"という展示をやっていました。これは映像インスタレーションといえる様な形式で、非常に素晴らしい展覧会でした。

 地下の巨大なブラックキューブの展示空間。その正面の壁面にはスクリーンがあり、その前方を囲むようにソファーが置かれている。まるで映画館を模したような展示会場です。
 スクリーンには映像作品が投影されています。映像は、世界中の映画の膨大なアーカイブから、時計が時刻を示しているショットを素材として集めています。(僕の確認したところ、黒沢明監督の作品からもショットが抜き出されていました。)
 それらのショットを、映画の編集やモンタージュの技法を駆使して、巧妙に細かくカットアップしていきます。時刻表示という共通項を持ってはいるものの、元は関係のない、別々の映画のショットが、編集によって繋ぎ合わされ、異系のタイムラインを形成してゆきます。
 形成されたタイムラインには、次々と時刻を表示するシーンが現れ、移り変わってゆきます。そして、なんと驚いたことに、その映像作品のタイムラインが表示しつづける時刻が、展示時のリアルタイムの時刻と厳密に同期しているのです。
 つまり、映像のあるショットに登場する時計が「17:30」と示している時、実際の時刻も同じく「17:30」なのです。映像は24時間あり、循環して再生が可能です。つまりこれは、新しい時計とも呼ぶことのできる作品になっているのです。

 これは、人間の映画鑑賞における時間感覚と、"時計"という時間の定量的計測が、巧妙にリンクしながら、時間の両義的な鑑賞体験を形成する、非常に優れた映像作品だと思います。
 映画を観ている時と、じっと時計を眺めている時とでは、人間の時間感覚は大きく異なります。それは、それぞれの経験刺激の勾配の差によると考えられます。時計をじっと眺めるという行為は、ひどく刺激が均質で単調ですが、映画は高度な編集テクニックを使って刺激的な勾配を形成し、
鑑賞者を惹きつけます。
 この作品では、異なる映画のショットから映像がコラージュされています。ですから、元々のストーリーの意味内容はショットから遊離し、ごく局所的な刺激列のみが抽出され、映画的に再構成されていきます。鑑賞者は、普段の
映画のストーリーを追うような鑑賞体験と重ね合わせながら、しかしマクロな内容の抜き取られた映像の刺激列の波を、ただ心地よく上滑りしてゆくのです。
 そうして、気が付けば十数分が経過しており、ふと現実の時間感覚が喚起されてきます。「今、何時かな?」というような感覚。その時に、二重の「気づき」がもたらされるのです。一つは、自分の時計を確認した時に、実はこの作品がコンテンポラリーな時刻を示しているという事実に対する「気づき」。そしてもう一つは、今まさに自分が鑑賞していた映像作品が、その鑑賞中も時間を刻み、表示しつづけていたという「気づき」です。

 この作品はまた、もう一つ上のレベルの「時間」に対する関係を問いかけているようにも思えます。現代の複雑な社会では、時間は分単位ほどに細かく管理されています。人々はその社会で生活する都合上、「自分がある行動にどの程度の時間をかけてよいか?」を絶えず判断しなければなりません。つまり、個々の鑑賞者は展覧会において、その会場をどの程度の時間で去らなければならないか、それが決まっているということです。現代の社会における「鑑賞」は、そうした時間的制約を"常に既に"負ってしまっていることが、鑑賞体験と共に喚起されるわけです。

 この展覧会を観てショックだったのは、まずは上述の展覧会の素晴らしい内容です。そして、大都市の一等地にあるコマーシャルギャラリーが、このような短期的な販売収入が見込みづらい映像作品の展覧会を、一ヶ月間無料で開催していたことでした。

 ロンドンのアートシーンの背景はもう少し探ってみないと大層なことは言えません。しかし、とにかくこの展覧会が実現されていたのは紛れも無い事実です。アートの内容よりも、それを巡る枠組みに大きな差を感じることを禁じえません。一個一個のギャラリーがほんと信じられないくらいデカイんです。いったいこの大胆さがどこから来るのか?もう少しリサーチしてみたいと思います。

 村山悟郎

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