2010年9月28日火曜日

015_村山悟郎→

彦坂くん

 先日の武蔵野美術大学での僕のプレゼンテーション*に来てくれてありがとう。僕にとってもこの往復書簡は自身の思考を再確認して明確にし、更に展開してゆくことを目指す、とても重要な働きをしています。今後ともどうぞよろしくです。


 
無限後退

 さて無限後退についてですが、彦坂くんの反応は僕にとってはかなり意外なものでした。僕は作品とパラレルに芸術理論も重視しています。その理論的整合性が批評においては徹底して問われなければならないし、それによって作品の美的表面のみに没しない鑑賞が可能だと考えるからです。
 無限後退とは理論的根拠がどこまで遡っても得られない状態です。ですから理論的にいえば、問いの立て方が間違っていると言わざるを得ない。もし、芸術理論を重んじるのであれば、ネガティブな事態です。

 無限後退、それは例えば、所有権の帰属を証明しようとする時におきます。

 所有権の帰属を証明するためには、原始取得の場合を除き、前の所有者から所有権を譲り受けたことの証明を要するとされている。ところが、前の所有者にそもそも所有権が帰属していたことについて争われた場合は、その者がさらに前の所有者から所有権を譲り受けたことの証明が必要になる。さらにその前の所有権が 争われた場合はその前の…と、無限後退に陥ってしまう。(参考:wikipedia「悪魔の証明」)


 つまり、所有権の帰属を証明しようという問いの立て方に問題があるのではないか?
 今、中国と日本が尖閣諸島を巡ってその所有権を主張していますが、これも同じ問題だと考えます。この時に要請されるのは、以前にも指摘しましたが、「動的な場の在り様」ではないか、と考えます。
 つまり、境界線を領域の振動運動として捉えるわけです。境界を確定的に主張するのではなくて、「今年はこれぐらい、来年はこのぐらい」と押し引きで暫時仮定してゆく。「この島は今年は日本のものだけれど、5年後は中国のもの」と、一定期間で統治を交代してゆくような動的な協定です。そもそも境界が揺れているのであれば、その揺れ方を決めてやればよいと思うのです。


 
ニューマンの問題2

 さて、では何故ニューマンの平面に無限後退が起きてしまうのか?
 それは前述の「地」と「図」の問題に加えて、鑑賞者、つまり外部観測者を絵画の展示に導入したものによると考えています。
 先日、川村記念美術館で開催されている展覧会「
アメリカ抽象絵画の巨匠 バーネット・ニューマン(2010年9月4日〜12月12日)を観てきました。当館の目玉の一つである<アンナの光>(1968年)が、普段のニューマンルームではなく、企画展示室に飾ってありました。
 大きな展示室を二つに分割する仮設壁が中央に立てられ、その中心に3mほどの通路が開けています。開けた通路ごしに<アンナの光>の赤い色面が見える。鑑賞者はその通路を通って全体を把握できない状態で、作品へ近づいてゆきます。部屋に入ると、作品全体を一挙に観ることが出来るギリギリの引き位置に壁が立っていて、それを背に鑑賞するようになっています。
 ここにはニューマンの提示しようとした「平面」の為に、鑑賞者を措定し、その動きを制御しようという試みが見てとれます。展示としては酷く暴力的な側面が垣間見えます。
 しかし、人間はまず思い通りの動きはしてくれません。展示室内を能動的に動き回り、自らの鑑賞を自由に形成します。そして、知覚とは差異を捉える作用ですから、「地」と「図」のない平面(全てが差異無く平均、平滑であること)は鑑賞者の知覚と矛盾します。つまり鑑賞者の視点に於いてそのような平面は存在しません。

 ニューマンの展示は「作品と場」という観念的な階層構造のなかに、鑑賞者を押しはめる結果を招いてしまった。
 しかも、その「鑑賞者」とは、「場」よりも更に上位の「社会」という階層に属しています。ですから、「作品と場」という関係に、更に上位の階層構造を引き出す形で、もう一つの無限後退が生じさせてしまったのです。
 鑑賞者は様々な社会的背景を持って、あらゆる場所からどこからともなくやってきます。それらの国籍、背景、文脈、どのような道順でここまで来たか、体調や、前日に観た展覧会の記憶など、いくらでも遡行することが可能です。この自由な鑑賞者に対し「何かを観せる」という企図の困難は自明だと思います。人間の普遍的な知覚に作用する展示はこれを可能にしますが、キッチュに没するという危険性も常に孕んでいます。
 これがバーネット・ニューマンの作品が持つ理論的限界だと僕は思っています。

 そこで僕が考え出したのが「システムと環境」というわけです。例えば「木が生えている」というようなこと。観られることに関係なくそのシステムの知覚系でそこに「在る」というような状態です。一方でそれを美的に鑑賞することも、その生態を観察することも可能なものとして。


ところで彦坂くん
キーワードの「介入」についてもう少し語ってみてくれますか?
アナウンサーという存在も絡めてもらえると嬉しいです。

村山悟郎


*武蔵野美術大学「近現代美術史演習」2010年9月16日

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