2010年9月8日水曜日

014_彦坂敏昭→

村山さん

石井君のオープニング*ではお久しぶりでした。
思考は停滞しやすく、無意識でいると怠惰に流れていってしまうと改めて感じました。
気を引き締めたいと思います。

池上高志さんと吉岡洋さんとのトークとても楽しみですね。
いろいろと得ることの多い展覧会になりそうで
誘っていただいて本当に感謝しています。

さて、

しかし僕はそれを彼らの作品理念の原理的困難さと見ます。
そのニューマンの平面は「地」と「図」を無くそうと試みた結果、
一階層上のメタレベルの「地」と「図」、
ホワイトキューブという「地」と、作品という「図」を引き出してしまった。
つまり「地」と「図」を無くし平面を獲得しようという理論では、
新たな「地」と「図」を生み出してしまい、
いつまでたっても平面に到達することができず無限後退してしまうわけです。


無限後退という響きかっこいいですね(笑)
村山さんの指摘通りニューマンの作品理念の原理的な困難さはある程度理解している
つもりですが、ひとまずニューマン自身の問題は置いておいて、
僕個人の問題として考えた時に、
作品を展示することでホワイトキューブという「地」と作品という「図」が浮彫り
出来たように、積極的に何かを無限後退しうるような状態で浮彫りに出来ないかと
直感で思ったのです。
そして、ニューマンが引き起こしてしまった事態について、
ニューマン自身はNOと言ったけど、僕はYESと言いたいと思っています。
この無限後退の原因には場(ホワイトキューブ)というものが相当に関わっています。
作品の性質と場の性質が相まってこの無限後退が起きている。
別の言い方をすれば、作品が場というプログラミングをハッキングしバクを起こし、
そのバクによって、場は全く異な生命体へと変化していると感じました。
結果、宙づりになった場は停滞することなく常に揺らぎ続けることになる。

コメント欄にいただいた下記の質問にお答え致します。

●作品の完成後、作者としての自身を、作品にとっての環境(外部)と考えますか?
それとも、相変わらず作者も作品(システム)の一部でしょうか?

僕の場合、制作過程では「外部としての作者」や「システムの一部としての作者」
など、作者の所在を多重人格化させることで作品を作っています。
システムに依存する部分もあれば、常に自作のシステムに疑い戦っていく部分を
共存させています。
あくまでも作品を完成させ るためにシステムを運用しているのですから、
もちろんその結果作品が完成すれば作品は作品になり、
作者(システムを含む)と作品は切断され作品は独立した運動体になると
考えています。

なので、僕と村山さんとの間の決定的な差はここにあるのかもしれませんね。

僕の場合はこれ以上の微調整が効かない所までシステムの中で作品を押し上げていく
という意識がかなり強く存在しています。。
なので、作品完成後の加筆は基本的に不可能ですし、しません。
この違いは面白いですね。
僕のキーワードはやはり「介入」なんですね。
そして、アナウンサーも介入者なんです。嫌悪感と親近感を同時におぼえます。

「システムと環境」の話すごく興味深いです。
道具立てとして、その作品(システム)が何を知覚していないのか。
僕は何を道具立てにする必要があるのか?これは考えないとですね。

早速ですが「精神と自然:グレゴリー・ベイトソン」と
「オートポイエーシス 第三世代システム:河本英夫」をアマゾンで注文しました。

少し読んでみます。



*石井亨 展「都市の時間」Mizuma Action
2010,09,01

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