2010年8月21日土曜日

013_村山悟郎→

彦坂くん

 書簡を始める前に一つ嬉しい報告をしておきます。京都芸術センターでの展覧会「TRANS COMPLEX - 情報技術時代の絵画」では、会期中にトークイベントの開催も企画しています。そこで、池上高志さんと吉岡洋さんにレクチャーして頂くことになりました。とても楽しみですね、どんなことになるか。是非、皆さんにも見届けてもらいたいです。


 さて、それでは引き続き「場」について書いてみたいと思います。
 彦坂くんが「場」に(?)とつけるのも分かる気がします。そもそも「場」というものが、それ単体で存在したことなど、未だかつて一度もなかったでしょうから。常にそれを認識するシステム主体と場は不可分(荒川修作さんの言葉を借りれば、有機体とランディングサイトとなるか)ですよね。つまり「場」をそれのみで語ることは全くのナンセンスということになる。

 「全てのアーティストが場に対してその認識を問われている」というコトバを、もう少し僕の作品に沿わせて、展開させなければなりませんね。それを僕は「"どのように"作品が存在しているか?」という作品の現象論的存在の認識、と考えています。それこそが、僕にとっての「場に対しての認識の更新可能生」として信じているものでもあります。


 
ニューマンの問題1

 彦坂くんが場を考察する手ががりとして、カラーフィールドペインティングをあげてくれたので、まずそれの問題を述べておきたいと思います。
 アメリカで50年代から60年代に現れたカラーフィールド・ペインティング、特にバーネット・ニューマン(Barnett Newman, 1905- 1970)が獲得しようとした「場」は確かに興味深いですね。
 アメリカでニューマンの絵画を高く評価したのは美術評論家のクレメント・グリーンバーグです。「地」と「図」の区分のない、均質で平滑なニューマンの色面。それによってニューマンはその絵画平面を「場」として提起しえた。これがグリーンバーグの見解だと思います。そして彦坂くんの指摘通り、それは作品以外の部分との関係を浮き彫りにした。

 しかし、僕はそれを彼らの作品理念の原理的困難さと見ます。
 なぜなら、ニューマンの平面は、「地」と「図」を無くそうと試みた結果、メタレベル(一階層上位)の「地」と「図」を引き出してしまい、無限後退に陥ってしまったからです。
 メタレベルの「地」と「図」とは、具体的にいうと、ホワイトキューブと作品を指しています。これが引き出されてしまっては「地」と「図」が無くなったとは言えません。もし仮に、全ての壁面をニューマンの赤で塗りつぶしたとしても、今度は街という「地」と、展示会場という「図」を引き出してしまうでしょう。これではいつまでたっても"「地」と「図」の区分のない平面"には到達することができません。こういった事態を展示における無限後退と呼びます。
 ニューマンもこれに自覚的だったようです。大きな絵画平面を展示するとき、彼はわざと引きのとれない、狭い空間を選んでいました。それは鑑賞者がその絵画の全貌を、ある一箇所から一挙に観ることが出来ないように工夫したものです。これによってホワイトキューブと作品という「地」と「図」の問題を隠蔽しようとしたのではないでしょうか。

 彦坂くんの言う「作品を展示することで、場を宙づりにする」というのはどういう事態か、とても興味がありますね。その理念の輪郭を少しずつでもこの往復書簡で明瞭にできていければと思います。僕はそれを、ニューマンのような展示とは全く異なると想像しますよ。アナウンサーの話とどのように絡んでくるのかも楽しみです。


 
"精神"≒「システム」

 では自分についてはどうか?
 先ほど述べた「"どのように"作品が存在しているかという現象論的存在の認識」。これを思考する道具立てとして、「システム」と環境の関係を引き合いに出して、考えてみたいと思います。人類学者のグレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson, 1904 - 1980)は、その著「精神と自然」で "精神" を以下のように定義しました。

1:精神(こころ)とは相互に作用しあう複数の部分ないし構成要素の集合体である。
2:精神(こころ)の各部分のあいだで起こる相互作用の引き金を引くものは差異である。
3:精神過程は傍系エネルギーを必要とする。
4:精神過程は、循環的(またはそれ以上に複雑な)決定の連鎖を必要とする。
5:精神過程においては、差異のもたらす結果をそれに先行する出来事の変換形
 (コード化されたもの)とみなすことができる。
6:これら変換プロセスの記述と分類によって、その現象に内在する論理階型の階層構造が明らかになる。

 そして、"精神"と「システム」の同義性をこう述べて主張しています。
『結局、この定義は「システム」と呼ばれる複合現象のもっとずっと広い範囲にあてはまる。』
 また、以下のように続けます。
『ここで記述されているのは、情報を受け取ることができ、また循環的な因果連鎖による自己調整ないし自己修正を通して、それ自身についての特定の命題の正しさを維持することができる"何か"である。』

 では、"精神"≒「システム」はどのようにしてそこに存在しているでしょうか?
 ベイトソンはその説明として、サーモスタットつきの室内暖房設備をモデルにあげます。今の時代で言えばエアコン付きの部屋ということになるかなと思います。
 そのシステムには、住人と、温度を感知するセンサー付きのエアコン、 そして、そのエアコンが不規則に熱を放出するであろう外界から区切られた室内空間が含まれます。屋外には様々な気象条件によって変化する外気があり、その部屋の室温もその影響下にあります。エアコンは設定温度を維持するために、温度センサーによって室温を感知し、出力を調整します。
 室温が 設定温度に達すれば出力を停止し、その値から離れればまた出力を開始する。 その作動を繰り返して室温を維持するシステムです。ベイトソンが示した図をもとに簡略化すると下図のようになります。


1.

     ←←←←←←←←← センサー(温度を知覚する)
    ↓           ↑
エアコンのスイッチ(入/切)   ↑
    ↓           ↑
     →→→→→→→→→  温度(上/下)


 そして、更にそこに住人が加わり、室温の体感によって設定温度を調整します。

2.
     ←←←←←←←←← センサー設定温度(上/下)
    ↓           ↑
 リモコンの状態         ↑
    ↓           ↑
     →→→→→→→→→ 住人の閾レベル(「寒い」「暑い」)

               ↑↑↑

     ←←←←←←←←← センサー(温度を知覚する)
    ↓           ↑
エアコンのスイッチ(入/切)   ↑
    ↓           ↑
     →→→→→→→→→  温度(上/下)


 
「システム」と環境  

 では、この室温維持という "特定の命題の正しさを維持する” システムにとって、「環境」とは何でしょうか?
 それは、この室温維持システムが持つ二つの知覚系、住人と温度センサーの複合知覚によって知覚することのできない外部であると考えます。
 例えば、図1で表したシステムにとって光は知覚されません。温度センサーは光を知覚できないからです。図1で表したシステムにとって、光は、たとえ窓からいくらサンサンと差し込んで室温を上昇させようとも無視されつづけるような外部、すなわち環境にあたります。
 一方、図2では、それに住人が加わり、体感温度によってセンサーの設定温度を調整します。そして、その他にも室温維持の効率をよくするために、様々な試行錯誤をするでしょう。光を知覚してカーテンを閉めたり、家屋の隙間を塞いだり、ファンを使用して室内の空気を撹拌したりするかもしれない。そうした室温維持を果たす複合知覚によって知覚されえない外部、それが室温維持システムにとっての環境にあたる。
 
 
何が見えていないか?
  
 そしてこのコンセプトには、ある「システム」主体が、いったい「何を知覚できないか?」を知ることが出来ないという事実が含まれます。知覚者は自分自身が何を知覚していないか、原理的に知覚できません。例えば、人間の目には赤外線や紫外線といった光線は永遠に知覚されないのです。
 また、「システム」の知覚系は、「なぜ世界を"そのように" 知覚するのか?」、すなわち、世界とその「システム」の知覚は、なぜ"そのような"対応関係にあるのか?
 これは、「システム」にとって常に恣意的であると考えられます。哺乳動物や昆虫といった様々な生物種が、全く異なった知覚系を具えていながら、同じ世界に属し、生存しているという事実が、端的にこのことを例証しています。

 このようにして「システム」には知りえない外部の領域:環境が膨大に広がっていると考えます。この考え方は、河本英夫さんの「オートポイエーシス 第三世代システム」に負う所が大きいです。

 この「システム」と環境の関係、つまりシステムの現象論的存在の認識(どのようにしてそこに「システム」が存在しているか)を前提に、作品の在り様を提示したいと考えています。
 今、展示において重要だと考えているのは、そのシステムが何を知覚していないか?つまり、何を無視してそこにシステム(作品)が存在しているか?その在り様そのものを現すことだと考えています。
 そしてそれはニューマンが直面した展示における無限後退の問題に対しての、自分なりの一つ回答だと考えています。

村山悟郎

2 件のコメント:

  1. 前回質問しようとした事の回答がまるまる記述されていたのですっきりしました。
    質問の内容はシステムないし知覚者の外部についてでした。
    システムの外部を「環境」というとき、それはシステムの仕様・性質や規模・範囲についての観測者による設定に拠るのではないかと思います。
    例えば、一匹のスズムシもひとつのシステム、それを入れる虫籠も含めるとさらに大きなシステム、そしてその虫籠を月夜の縁側に置いて音色を楽しむ人も含めればさらに大きなシステム、という具合にどんどん膨らむ。
    これは村山さんの言っている事と同じで、無限後退的にシステムは表れてしまう、ということです。
    まあ、上の例の場合は知覚というよりも認識なのかもしれないですけどね。
    これらを踏まえて「テンポラリーな」システムについて考えたんです。
    例えば、作品を制作しているときは、作者(とくに身体)はその作品(システム)において最も重要な一部を担っています(当てはまらないタイプの作品も勿論ありますが)
    しかし、一旦作品が完成を迎えると、作者は作品のシステムから物理的には切り離されてしまう、という問題があります。
    あまりに自明過ぎるかもしれませんが、お二人の作品においては特別重要だと思うので、これについて質問させてもらいます。

    ●作品の完成後、作者としての自身を、作品にとっての環境(外部)と考えますか?
    それとも、相変わらず作者も作品(システム)の一部でしょうか?

    作品が歩む一般的な経路として、この次の段階で展示空間があるのだと思います。

    回答宜しくお願いします。

    返信削除
  2. 質問ありがとうございます。
    お答えしたいと思います。

    -無限後退的にシステムは表れてしまう

    そうですね、システムをそのシステム主体の知覚ではなく、観察者の視点から見た時にはそのような事態が発生すると思います。
    しかし、それぞれのシステムはベイトソンが述べる通り「循環的な因果連鎖による自己調整ないし自己修正を通して、それ自身についての特定の命題の正しさを維持することができる"何か"である。」といった恒常性や自律性をその存在の条件とします。
    ですからそれら自律した下部システムを含むさらなる上部システム-階層関係が両義的に現れる、というのが僕の認識です。
    ニューマンの「地」と「図」の無限後退とは様相が違うと思います。
    「テンポラリーな」システムとは、観察者の視点を持たないシステムへの眼差しだと思います。
    知覚者は何を知覚していないかを知覚出来ないばかりか、外部とその知覚の対応関係すなわち外的条件を知り得ない。我々人間に何故世界がこのように知覚されるのかは知り得ないし、それが絶対のものでもない。異なる生物が異なる知覚システムを持ちながら、同じ世界に属していることは端的にそのことを現しています。
    そのような、知り得ない外部すなわち環境がある。

    さて、ご質問の回答ですが、僕は二つの可能性を考えています。これが原理的に両立しうるのかはまだ分かりません。

    1:作者も作品(システム)の一部である。

    僕は制作過程においては、完全に作品と自身でシステムを形成し一体となった状態にあります。そしてそのシステムは常に継続している。展示されたその時でも、僕はいつでも作品システムに参入し制作を続行させることが出来る。展示はそうした状態の断面でしかないという考え方です。
    事実、作品が展示中でも、すぐ編み始めることが可能です。

    2:作者はシステムの観察者へと移行する。

    システムがシステムである為には動き続けることが条件になる。システムが停止した時、それはシステムであることを止め、単なる物、生物の死骸のような物に変容します。展示の際には、その死骸を観察する主体へと切り替わるような状態もあり得る。
    制作過程では自己言及的に自身のシステムを見るということが動作に織り込まれていますので、その最後の現出として観察者への移行という考え方も可能ではないかと思います。

    村山悟郎

    返信削除