2010年8月16日月曜日

012_彦坂敏昭→

村山さま

場(?)について

>このように「場が動いている」という動的な場の認識に立つならば、
もはや、ある作品をある空間に「展示」することによって発生する「場の関係性」
では、場に対する認識として不十分であり、ある場の「動き」自体を捉えることが
困難ではないかと考えています。

かなり賛成です。
それから今後は、展覧会レベルでも考えていく必要がありますね。

僕も個人レベルでいうと、一般的な(?)「場との関係性」についてのヴィジョンは多分欠落していますし、素朴に疑問があります。
本当に作品を「展示」することで「場」や「関係性」という言葉を目指していく必要があるのか?という純粋な疑問です。
もちろん「では何を目指すのか」という欺瞞は残りますが。。

同時に、これは前回村山さんのおっしゃっていた
「全てのアーティストが場に対してその認識を問われているという意味」に根本的には繋がっていると感じます。

それは「全てのアーティストが場(?)に対する認識の更新可能性を問われているという意味」になります。

その上で、「展示」という方法がどこを向き何を目指すためにあるのかをよくよく考えなければなりません。
作品を展示し、場(?)を宙づりにすることで、世界をどのように見せていくのか。

比較的わかりやすい手がかりとしては、カラーフィールド・ペインティングが、
徹底的に余分なものを削り取り、その還元の結果を平面自体に託し、ホワイトキューブに提出したことで、作品以外の部分との関係を浮き彫りにし、結果として作品の中に場という意識をインストールし作品のあり様を拡大させることに成功したことがあげられます。
徹底的に還元に寄り添っていくカラーフィールド・ペインティングの手法そのものには現代のリアリティは全く存在していないと感じていますが、
ただ、ルールのようなものによって出来上がる頑ななものをどのように展示することで場(?)を宙づりにできたかという意味では明るい手がかりだと感じました。

僕の場合は、自身と制度という関係を想定したうえで絵画制作の「ルール」を構築し、その「ルール」に対して自分が如何に介入し、どのように相互作用すれば創造性を獲得することが出来るかを常に考えて制作をしています。
実際にこの世界が見知らぬ誰か達の意思の総合によってプログラミングされ、結果として形作られている。
そして、この圧倒的なルールやサイクル、スパイラルといったものの中に、どのように積極的に介入すれば一時的にでも出入り自由にできるのかという疑問が制作の動機と深く結びついています。

ですので、場(?)のようなものに対する意識は常に持っている必要があるけれど、作品そのものを充足させる手続きの一貫として考えていく他なさそうだと思いました。残念ながらあの段階ではこの展覧会において何をしようかなんて考えていませんでしたので、ただただ自分のスペックをアピールするしかなかったのが実情です。


少し話がズレてしまうかもしれませんが、「アナウンサー」という職業・役柄に最近興味があります。
極端すぎるかもしれませんが、僕らが普段生活している実社会の「景色」を表と裏で説明すると、裏では様々な人の思惑や意思や情念が複雑に絡み合いルールや設定が作られ、その結果として表の景色は様々な現象が立ち現れ、目の前に広がっていると考えられます。
砂時計の様な形で考えると分かりやすいかもしれませんが、ちょうど真ん中の凹みの場所に、いかにも中立な顔をし表と裏の辻褄を合わせる象徴的な役柄(それが機能しているかどうかは別)として「アナウンサー」が存在しているような気がします。

この「アナウンサー」の存在についてと自作についての「関係性(??)」をすこしずつ考えてみたいと思っています。

0 件のコメント:

コメントを投稿