2010年7月28日水曜日

011_村山悟郎→

彦坂くん

 
「動的な場の在り様」について

 場については大きな関心事の一つですから、念入りに考えたいと思います。前回の僕の書簡(009)で「全ての作品が何らかの形で場に帰属している」と述べたのは、全てのアーティストが場に対しての認識を問われているという意味で言いました。
 ところで、京都芸術センターでのプレゼンテーションについて、審査員の平芳幸浩さんからの審査評は厳しいものでしたね。

「ある作品をある空間に「展示」することによって発生する「場の関係性」についてのヴィジョンが欠落している」(平芳幸浩 氏)

 これには僕のプレゼンテーションの至らなさを感じます。確かに、僕は先のプレゼンテーションにおいて、展示の具体的なプランや会場イメージは提示しませんでした。しかし、けっして「展示」における「場の関係性」についての認識が欠落しているわけではありません。そうであるならば、せめて僕は場についての認識をもう少し言葉にして表すべきだったと思います。ですから前回の話と絡めて、
場に対してどのような認識で制作や展示にあたっているのか説明してみたいと思います。

 まず平芳さんのいう「場の関係性」とはどのようなものか?
前回の書簡で、僕は中村政人さんの作品「QSC+mV/V.V」(2001)の「場の特殊性」について指摘しましたよね。これがまさにあてはまると思います。しかし一方で、それは場に対する静的な洞察ではないかと書きました。つまり時間や動きといったダイナミクスが含まれない、スタティックな場に対する認識だと思うのです。主体や鑑賞者が含まれない場と言っても良いかもしれません。

 そこで「動的な場の在り様」を考察するために、「場の領域性」をあげて考えてみたいと思います。「場の領域性」とは、どこからどこまでがその場であるか、
という領域に関わる概念です。これを空間的、概念的、時間的に見ることができると考えています。

 
動く境界

 場を空間的にあつかい、
その領域を指定することは、さほど難しいことでは無いように思えます。ただ境界線を引いて、表せばよい。しかし、この境界線を動的な眼差しで見たときには、単に空間的な境界として捉えることは出来なくなってしまいます。主体をふくんだ行為として境界線をとらえる必要が出てくるのです。つまり「境界線」ではなく、「境界線を引く」という行為として、見なければならないのです。そのとき事態は大きく変わってくると考えます。
 例えば、国境は更新され、
国家間によって絶えず主張され続けています。つまり、境界は不動ではなく、国家間の相互作用によって常にゆらぎ、動いているのです。そのように、境界とは、それを侵す何者かに対して、常に主張され続けなければならないのです。犬が毎日散歩をして、マーキングをし、自分の縄張りを主張するようにです。それが国境という国家の空間的領域の動的な在り様です。
 しかし、境界線も「これは境界線である」
というコードの認識可能な対象にだけ有効になります。ですから、まだボーダーレスな子供などは立ち入り禁止の場所に簡単に入ってしまいます。子供は母親の躾を受け、そのコードを学習するプロセスをへて、社会化してゆきます。このように、子供のような対象には、別の手段をもってその境界が主張されなければなりません。
 展示会場も例外ではなく、境界や禁止次項があり、
それらが観客に周知され、それらを監視し、注意を喚起する人物がおり、それら観客と展示会場の相互作用によって、初めてその場の「領域性」が担保されるのです。
 このように「場が動いている」
という認識に立つならば、もはやある作品をある空間に「展示」することによって発生する「場の関係性」では、場に対する認識として不十分ではないかと考えています。「場の関係性」では場のダイナミクスをとらえることは難しいのです。「動的な場の在り様」をとらえるためには、相互作用をふくむ時間的眼差しが必要になってくると思います。
 自分の制作に立ち戻って言うと、
描くという行為とその描かれる領域を作るという行為の相互作用によって、「動的な場の在り様」を捉えようと試みている、ということになると思います。

 そこで場に関して、主体(システム)
と環境の相互関係というコンセプトが要請されてくるのではないかと考えています。

引き続き、場について考え書いてみます。

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