2010年12月16日木曜日

19_彦坂敏昭→

かなり久しぶりの投稿です。

前々回の村山さんの投稿で、森田浩彰さんの展覧会で見た
時計の作品を思い出しました。テイストは違いますが構造は似ています。
同じような体験をしたのですごく心に残っています。
http://www.art-index.net/art_exhibitions/2008/05/clockwise.html

最近は空回りと停滞を繰り返していて時間を浪費していました。
ようやくチラシのデザインが決まりそうですね。少しほっとしています。
アートワークご苦労様です。
展覧会用の制作も順調というか年内に終わらせないといけない範囲が
少しずつ見えてきたので落着いています。

さて、僕個人の今の状況を整理すると共に、今回の展覧会(TRANS COMPLEX)を実現するべく、元々は村山くん宛てに用意された6つの質問に前回までの投稿でかぶる部分もあるのでなるべく簡潔に答えてみたいと思います。と、いろいろ思いを巡らせたのですが良い意味で自分の欠点をさらすことになっています。以下おつきあいください。



Q1: What do I want to get out of being in Chelsea.
  (チェルシーカレッジMAファインアートコースで学ぶことから何を得たいと思うか?)

A:チェルシーカレッジで学ぶというよりは、これから独学で何を意識的に学ぼうかとあれこれ考えました。基本的なことですが「みること」について総合的に学んでみようかと。。それは、「作品が他者からどのように見られるのか」や「どうようにすれば意図した効果を作品が発揮することができるのか」と直接的に繋がるものでなくて、あくまでも描くという行為・技術に付随するものとしてです。
作品は個々の美術家により、その制作過程において様々な選択や決断を下されることで立ち現れてくるものです。描く技術はまさにその選択や決断において各主体がどのような正当性を制作の現場に持ち込むことができたのかに基本的には集約させることができると考えています。
過程において拠り所となる正当性の違いはそのまま経緯となり、最終的な形を決定します。プロセス内は川の流れの様に流動性があって、その流れにどのように櫓をさすかが船頭であれば評価のポイントになります。どのような櫓を使い、どんなタイミングで、どのような力加減で櫓をさすのか。そこでは経験の蓄積が不可欠です。様々な状況と経験を照らし合わせることで、いつの間にか技術として身に付きます。
絵画の場合も「みること」の経験を過去の美術家の経緯からも総合的に参照し、また様々な学問を総動員させ「みること」の幅を広げ技術として養っていく必要性を感じています。
さらに別の例をあげてみます。大学に通っていた際に「(自分の作品を)つくる前に(他人の作品を)みましょう。」とか「(他人の作品を)みる暇があったら(自分の作品を)つくりましょう。」という冗談(?)をよく耳にしましたが、まじめにこれに答えるとすれば「(自分の作品を)つくったら(自分の作品をしっかり)みましょう。」というのが少ない経験ながら正しいような気がしています。作品制作を循環的なものにするには結果としての作品をしっかりと見つめ、その弱点や欠点を見極める必要がでてきます。
つまり少なくとも2つの段階で「みること」の技術が制作においては問われていると考えていることができます。1つはプロセスの中で与えられる選択肢に対しより良い判断を下すための技術として。2つ目は作品制作を実り豊かな循環性のある一連の行為になるよう判断を下するためのフォーラムのような機能・技術として。基本的すぎることかもしれませんが大切だなぁとつくづく感じますので「みること」を下支えをするための多くのことを学びたいです。


Q2:Why do I weave the canvas and prime sections.
 (なぜ、キャンバスを織り、下地を施すのか?)

A:この問いを自分自身に向けるとすれば、なぜ下地に画像を使い、さらにはそれらを加工し使用するのか?という質問になるかと思います。
まず、選んでいる「画像」は特に問題ではなくて、実際に自分で撮った写真もあればインターネット上から拾ってきたものありさまざまです。僕にとっては水質調査のように、大きな湖からビーカーに1杯だけ水を掬った時にたまたま入ってきたその水という感覚で画像を選択をしています。その時に、浅い所なのか深い所かや、夜なのか昼なのか、季節はどうなのかなどの諸条件というかキーワードは必ず設定しています。研究の対象が「自然」から「画像」へ移行しているということなのかもしれないですね。
そして画像を基に絵を描く行為は「なぞる」ことと繋がっており、また画像を加工をしてから使用することは「えらぶ」という行為と繋がっていてとても大切な事柄だと捉えています。
「えらぶ」や「なぞる」行為は、ゼロからイメージを思い浮かべ描く創造性や、模倣性をそのままに抱え描くことへのアレルギーの結果として採用されていますが、ただ単に個人的な感覚だけではなく社会的、あるいは歴史的な背景知識からも抽出しておりその正当性は複雑に絡み合っています。



Q3:Where does the work 'exist' ?
 (作品はどこに「存在」するか?)


A:大原美術館の主催するレジデンスプログラムARKO2009に参加した際に作品批評を沢山遼さんに書いていただいたことがあって、自分がやってきたことに対してすごく前向きな言葉を出していただいたことがあります。作品が複数のパネルからなることに対し沢山さんは「絵画的なスケールを-こういってよければ-偽装してきたのである。」と評してくれました。前後の文脈から指し示すものとは少し違う角度からも前向きな意味で突き刺さるものがありました。ですので、今回の展示ではこの言葉を受けて少しでも作品の「存在」について前進できればと考えています。
「偽装」という言葉を孕んだ「絵画的なもの」が、例えば食料供給のために野菜や穀物を作る農家の仕事が、結果的に「その地域の歴史文化の継承」や「美味しいものを食べること」「環境保全」「教育」など多様な社会的役割を担っていくのと同じように、その役柄を演じることで、絵画を「絵画」と「絵画的なもの」へと区別し、さらにその先にある「人間」と「人間的 なもの」や「生命」と「生命的なもの」などの持つ問いへと意識を押し広げることのできる「絵画的なもの」の「存在」の在り方に配慮したいと考えています。


Q4: If the painting looks ornate or decorative,
relating to Folk Art is that a problem?

  あなたの絵画がフォークアート(プリミティブアート)と関係しながら、
  飾りたてるように、あるいは装飾的に見えるとしたらそれは問題か?


装飾については知らないことが多すぎるのでその言葉の定義も含め勉強してみます。
「装飾」もしくは「装飾的なもの」を通して自分の作品を観ることはとっても必要なことのような気がします。取り急ぎはその通史を学ぶ必要がありますね。鶴岡真弓さんから読んでみます。

【Q5】もいろいろなことが言えてしまう分、明確さが欠けてしまいます。

(未回答あり)

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