2010年12月22日水曜日

20_村山悟郎→

彦坂くん

 どうもです。だいぶ、展覧会も近づいてきましたね。チラシのデザインが何とか決まってホッとしました。あとは自分達の作品の制作と運搬と展示ですね。
トークイベントについても、どのような内容にするか吉岡洋さんと相談しているところです。
 それとTRANS COMPLEXのカタログを京都芸術センターでの展覧会の後に出版する予定です。そこでは僕の作家論/批評を中島智さん(芸術人類学・武蔵野美術大学/慶応義塾大学兼任講師)にお願いしました。中島さんとの対話も先日から始めています。

 この往復書簡がいろいろと関わってくださる方とのきっかけになっています。これからもガチで書いていきたいと思ってますので、よろしくです。前回の書簡で、彦坂くんもDEXTER DALWOODの6つの質問に回答してくれましたね。そこでとりあえず、彦坂くんの回答に触れる前に、僕も回答を表明しておきたいと思います。その上で、気になった箇所は質問し合ったりするのも良いでしょう。凄く長くなってしまって申し訳ないですが、何卒お付き合いください。

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DEXTER DALWOOD から村山への6つの質問の回答


1: What do I want to get out of being in Chelsea.

  チェルシーカレッジMAファインアートコースで学ぶことから何を得たいと思うか?

 私は、 "生物としての人間" の普遍的な行動や現象を作品として対象化したいと考えている。
普遍的な行動に対する関心は、国籍といった枠やコンテクストには左右されないものである。まさに世界中で共有可能な問題意識といえる。
それを作品として成立させる為には、世界中のあらゆる人々に理解される可能性を持たなければならない。
 その為に、このチェルシーカレッジの国際的な風土はとても有用と考えられる。なぜなら、国際的な学びの場で制作し発表することは、その評価や批評のあり方、作品に対する疑問の立て方などについて触れることでもあるからだ。それは自身のこれまでの価値体系のみに依拠しない、相対化されたコンセプトを身につける機会につながるだろう。チェルシーカレッジの皆さんと作品に関して多くの批評的応答を展開してゆきたい。


 2: Why do I weave the canvas and prime sections.
  なぜ、キャンバスを織り、下地を施すのか?

 人間の普遍的な行動を考えるには、「学習」のプロセスを研究することが有効である。
 また、そもそも私の美術における専門分野は絵画であるので、ひとまずの制作のテーマは「 "絵画を制作する" という行動における学習のプロセスとは何か?」となる。「学習」とは、簡単に言えば "行動の変化について" であり、そして「変化」は「時間」を含む概念である。

 「行為」と「環境条件」

 人間のある「行為」は、その「環境条件」との関係のうちに成立している。
 例えば、子供がどこかに落書きをする時のことを考えてみよう。もしアスファルトのような固い地面に落書きをするのであれば、チョークのように少し柔らかい描画材料を用いるだろう。しかし、もし地面が
柔らかい土であれば、固い木の棒を使う。つまり、その環境に合わせて、行為や道具を調整し、順応しようとしているのである。
 また、環境に対しても働きかけて、その様相を変化させることができる。描いた内容がより視認しやすいように、砂を退けたり、より平滑な面を作ろうとしたりすることによってである。
 そうして人間の「行為」と「環境条件」の間には、その行為がより成されるために、相互に作用しあう関係を見いだすことができる。ただし、ここで言う「環境条件」とは、今まさに行われている「行為」との関係の中でも、その行為主体にとって認知可能であり、後に操作、整備されうるようなものとして考えている。(後にオートポイエーシスシステムにおける『環境』という語が登場するが、これとは峻別して考えてほしい。)また、その「環境条件」の操作が、「行為」にとって良い結果をもたらすか、否かは、「行為」の事後的にしか判断できないものでもある。

 絵画制作においても、この「行為 - 環境条件」の相互作用のプロセスが学習を巡って見いだされうる。キャンバスを作って、そこに描く、という以下の図のような支持体形成と描画行為の往復がそれにあたる。


                キャンバス「A」を作る

                  ↓

                「A」に描く

                  ↓("「A」に描く" の結果をフィードバック)

             キャンバス「A'」を作る
               
                  ↓

                「A'」に描く


 
フィードバック

 キャンバス「A'」を作るとき、「Aに描く」という経験を踏まえて、「次にどのようなキャンバスを作るか?」というフィードバックが発生する。抽象的にいえば、これまでの状況を維持するか、何らかの変化を要請するか、である。具体的いえば、キャンバスのサイズや比率、表面の平滑さの度合いや描画材に対する吸収率などの変更、維持が考えられる。
 そしてある変更/維持が加えられたキャンバス「A'」に対して、「A'に描く」の行為は
順応的に再度形成されるのである。このような「行為 - 環境条件」の相互作用が、時間とともに連続的に繰り返され、循環し、自己修正的なプロセス(学習)が発生すると考えられるのである。

 作品の組織化

 この考え方を基本にして、「ペインターが絵画を制作する」という行動における変化を、絵画の素材を用いながら作品として組織化する。前述の相互作用は基本的に、「環境条件」→「行為」→「環境条件」→,,, というような往復的な時間を含む概念である。
 紐を織ってキャンバスを作るという行為は、この作品が持つ時間の方向性、すなわち「学習の進行方向」を示すのに重要な役割を果たす。紐を任意のコードに沿って付加的に織り上げていくことによって、作品に時間軸を形成できるからである。独自に設定した '織り' のコードによって、随時、描画領域を形成し、その上に描画行為を実行してゆく。
作品を詳しく見てもらうとご理解いただけると思うが、織られたキャンバスには無数に区画され、文節された描画領域がある。これを「段/STEP」と呼んでいる。この「段」が、通常の絵画でいえば一枚のキャンバスに対応している。


       「Aの段を織る」→「Aに描く」→「A'の段を織る」→「A'に描く」→,,,


 
 
'織り' のコードによって、この「段」を付加的に織り上げ、連ねてゆく。そして「段を織る」→「その段に描く」を繰り返してゆくのである。この'織り' のコードでは、さらに「段」の高さと幅を任意に調節することができる。
 例えば、横糸の
'織り' のコードで「段」の高さを調整する。横糸は制作開始当初は一本である。それを縦糸に往復させながらキャンバスを織りあげてゆく(平織り)。横糸を織る際には、紐の長さに制限があるので、紐が途切れる。よって、その都度に新たに結び付けなければならない。この時、横糸の本数を任意に選択して増減させることが出来、その本数の往復分が「段」の高さに相当するように、コードが設定してある。
 その横糸本数の選択のコードは以下のように表すことができる。Xが前段の横糸の本数、X'が次段の横糸の本数。任意に選択した横糸aの本数を2倍に、残りの横糸bを0本にする(結んで閉じてしまう)。横糸の総本数の2倍(往復分)が「段」の高さになる。このコードでは最大で前段の倍の面積の次段を形成することが可能。

              X=a+b → X'=(a×2)+(b×0)

 このコードによって、「段」の形成のつど、その面積比を調節し、「描く」へのフィードバックを発生させることが出来る。それによって「行為 - 環境条件」の相互作用、自己修正的なプロセス(学習)が、一つの作品内に発生するシステムが組織化されているのである。


 絵画のロジカルタイプ

 時間発展を含む二つの組織、貝殻模様の生成のような有機構成と、この作品の生成プロセスを比較してみて、その性格の違いを考えてみたい。
 貝殻は、殻本体とその表面に現れる模様とが、同時に、かつ一元的に生成されながら時間とともに成長してゆく。殻本体は炭酸カルシウムの結晶とそれをつなぎ合わせる糊のような役割を果たすコンキオリン(主な成分はタンパク質、生体色素を含む)からなっている。成長とともに新たな部分が分泌・付加されながら大きくなっていく。その時、糊の役割を果たしているコイキオリンに、生体色素の一種が緊密に結合して分泌されており、同時に模様を生成しているのである。

 一方、この作品の生成は、「絵画」を制作する「行為 - 環境条件」の学習プロセスを対象化しており、それとは大きく異なる点がある。それは、最初に描かれる領域がキャンバス(「段」)として区切りとられ、そこに描画するという、二段階の論理階型(ロジカルタイプ)の異なるプロセスの往復を持っているということである。
 まず、絵画にとって「キャンバス」と「それが表象する内容」とは、
論理階型が異なる。「劇場」と「そこで演じられる劇が表す内容」のようにである。「絵画」という集合から導き出される形式と、一つの要素である個別の絵画が表す内容が、混同されてはならないからである。それはラッセルとホワイトヘッドの論理階型理論 (「数学原理」1910-13)の公理に基づいている。
 
 その理論とは以下のようなものである。


「要素の集合は、要素それ自身のタイプ(階型)とは異なるタイプ(階型)からなる。
 集合は要素ではない:1つの要素は集合ではない、
「すべての集合の集合」や同様の構造を語ることはできない。」



 例えば、いま世界中に存在するあらゆる絵画からなる集合を考えてみる。我々が普段「絵画」と呼んでいるものはすべてこの集合の要素である。だが、その集合それ自体は絵画ではない。同様に、ある特定の絵画は '絵画の集合' ではありえない。ひとつの絵画と、'絵画の集合' とは、ふたつの違ったレベルのタイプ(階型)に属す概念なのである(集合の方が高次のレベルである)。この公理に違反したときパラドックスが発生する(ラッセルのパラドックス)。有名な例に「エピメニデスのパラドックス」がある。

 また、G.ベイトソンはその著「精神の生態学」(1972)で、「学習」の概念にこの理論を適用することを提案している。以下の三段階の論理階型に分けて「学習」を捉えることを提案したのである。


・ベイトソンの学習理論
(モリス・バーマンによる要約より引用「デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化」(1981))
 
 <学習Ⅰ>:
  個々の具体的問題を解決すること。
  ※(ベイトソンによる具体的な例示)
  「慣れ」の現象。学習の古典的条件づけ、道具的条件づけのケース。"完成された" 学習の消失。

 
 <学習Ⅱ>:
  学習Ⅰの速度の漸進的変化。学習Ⅰにおける問題のコンテクストの性質を理解すること。
  ゲームのルールを理解すること。パラダイム形成と言っても同じである。

 
 <学習Ⅲ>:
  ある人物が、自分の持っているパラダイムすなわち学習Ⅱが、
  実は恣意的なものにすぎないことを突如悟る体験。
  その結果その人物は、人格の根本的変容を体験する。



 絵画を制作するという行動において、「キャンバスを作る」と「描画する」は、これもまた相互にとって異なる論理階型に属している。この二つの行為にとっての<学習Ⅰ>とは、それぞれの行為に '慣れる' というような変化を指している。しかし、ここまで述べてきたように
、この二つの行為の関係を、行為が相互に循環する自己修正的なプロセスとして見たとき、それぞれの行為は、もう一方の行為にとっての<学習Ⅱ>となりうるのである。
 例えば、『「描画する」がより良く達成される為に何をするべきか?』という命題と、その答えとして「キャンバスを作る」は、「描画する」という行為にとっての<学習Ⅱ>に属する。また、『作ったキャンバスの上にどんな「描画する」を成すべきか?』という問いとその答えも同様である。

 「絵画」の形式と内容、そして絵画制作における「行為」と「環境条件」、それらが二つの異なる論理階型に属しているのである。これは貝殻の生成といった一元的な組織と大きく異なる点である。テキスタイルや織物(ファブリック)も「絵画」のような論理階型の階層を持っていない。形式が内容を生成する。
 下地を施した部分は、この「絵画」としての論理階型の違いを示している。つまり、この作品が "「絵画」について" であることを端的に表しているのである。


 3: Where does the work 'exist' ?
  作品はどこに「存在」するか?

 
プレローマとクレアトゥーラ

 G.ベイトソンが、よく用いる世界の二つのあり様にプレローマとクレアトゥーラというものがある。プレローマとは物理科学で記述されるような種類の規則性を特徴とする物質世界である。一方のクレアトゥーラは、情報(差異)が因子となって作用およぼすようなあらゆるプロセスをさしている。全生物学的・社会的領域を意味する。物理法則にしたがった形態をとりながらも、生命という固有のプロセスにもしたがう領域である。(ベイトソンは、「芸術はまさしくプレローマの世界に属する」と述べている。)

 例えば、あるペインターの描きかけの絵があるとする。そして、次に「どこに」「どのように」筆をおこうかと考えるときを想定してみよう。
 ペインターはこれまでにその画面でどのような仕事を積み上げてきたかというコンテクストを、当人として唯一知っており、また、その絵画制作において他者とはことなる*位相に「存在」している状態にある。そしてペインターは、それまでのコンテクストと、その時の制作の状況から次の一手を描くための情報をその人の特有の理(リーズン)によって知覚する。(これがその人の位相であり、この情報の知覚のあり方がその個体を大きく性格付ける。制作のコード、文法。)
 そして、メディウムという物質的な素材を媒介にして、プレローマの世界の諸条件:重力などの物理法則に従いながらも、絵に次の一手をしかけてゆくのである。このときプレローマに '重なり合って' 「ペインター × 絵」という位相、クレアトゥーラが立ち上がってくる。こうして絵画ができてゆくプロセスは情報を知覚する主体(システム)を含んだ透明なクレアトゥーラとして、物理世界(プレローマ)とは同一次元に「存在」せず、'重なり合って' 「存在」している、と見るのである。

 「学習」はどこに存在するか?

 また、これと同様に「学習」も、物理世界(プレローマ)に物体として「存在」しているわけではなく、クレアトゥーラとしてプレローマに '重なり合って' 「存在」していると考える。
 以前にもこの往復書簡で、「動的なサイト」:場における作品の動的な在り方、「システム - 環境」:システムの現象論的存在、でシステムの存在の様態について述べてきた。システムは世界から自らを区切り取り続けることで、その位相学的内部に「存在」している。
 「学習」もクレアトゥーラであると考え、マテリアルを媒介にしたメディウムとして、物理的な空間に位置を区切り取りながらも、同時に、そのシステムの知覚系によって秩序だったネットワーク領域を形成しつづけ、そこに「存在」している、と考えるのである。
 この領域のことをオートポイエーシスでは「*位相学的領域」と呼んでいる。このオートポイエーシスシステムの作動中においては、システムが世界から位相学的内部を形成し続け、その外部を『環境』と呼ぶ。(先ほどから述べている「環境条件」:操作されうる行為の環境条件という言葉とは意味が根本的に異なるので『環境』とくくる。)

 展示における「存在」

 実際の展示に於いては「ホワイトキューブ」と呼ばれる特殊な展示空間に「存在」することになる。これまでの美術の歴史的背景、コンテクストを有する、美術的価値体系に依拠する空間である(これについてはQ5を参照のこと)。
 また壁や床といったプレローマの世界の諸条件によっても、作品の様相は変化するだろう。そこで、垂直壁面というプレローマの世界の条件において、クレアトゥーラの私の作品生成プロセスがどのように「存在」するかを検討してみる。それを検討することによって、プレローマに対してクレアトゥーラがどのように '重なり合って' 「存在」しているかが可視化されると思われるのである。

 現時点の私の編んで描く作品には、実壁に対して大きく二つのタイプの「存在」様態がある。
 以下の二つの作品を例示して比較してみる。

「浸透する ドリフトする(2009)」(http://goromurayama.com/works/works_a/works_02.html)
「神の宿る部分(2009)」(http://goromurayama.com/works/works_b/works_02.html)

 「浸透する〜」の方は、スタジオでの制作段階から壁面に直接的に編み付けながら制作されたものである。スタジオの壁から展示空間の壁へ、同様のプレローマの世界の条件のまま平行移動するようにして設置されている。
 一方、「神の〜」は、常にスタジオの床面で制作され、展示段階になって初めて垂直に立ち上げるという '変態' を遂げている作品である。作品生成プロセス(クレアトゥーラ)に、長い時間にわたって垂直下方向にかけ続けられきた重力(プレローマの世界の条件の一つ)が、展示において水平方向から垂直方向へ劇的にズラされるのである。作品生成プロセスにかかる重力とは、柔らかい麻紐の物性や水平面での身体運動など様々に考えられ、それらは複雑に絡み合い複合化している。

 
クレアトゥーラとプレローマの知覚

 ここでこの二つの「存在」様態の比較から見られる差異とはどのようなものか?
 例えば、ドナルド・ジャッドの作品:アルミニウムで作られた立方体が壁面に設置されたもの(スペシフィック・オブジェクト)と、ロバート・モリスの作品:分厚いフェルトが壁面にゆったり歪んだ形をたたえながら垂れさがっているもの、この両者を比較したときの差異、これをイメージしてみてほしい。
 ジャッドの作品は、軽く硬質なアルミニウムの素材で、丈夫に組み上げられた立方体の形態である。そのため、これが壁面に設置されても、重力の影響は不可視であり、透明である。
 一方、モリスの作品は、分厚く柔らかいフェルトを用いて、壁面に設置し、重力の影響を強く可視化する作品様態になっている。ここでの比較で知覚されるのは、素材やその構成によってそれらが受ける垂直壁面での重力の影響の差異である。
 しかしながら、「浸透する〜」と「神の〜」の比較で見いだされるのは、単に重力下における物性や構成の差異ではない。クレアトゥーラがプレローマの世界とどのように '重なり合って' 「存在」しているか、そうでないか、その差異なのである。
 本来の床面から壁面に '変態' した「神の〜」は、いわばクレアトゥーラの死骸といった状態であり、もはや
プレローマの世界と '重なり合って' 「存在」してはいない。一方、水平移動した「浸透する〜」は依然としてクレアトゥーラとして制作プロセスは生き続けており、私がその気になれば展示会場で制作することも可能である。しかし、「浸透する〜」はクレアトゥーラがプレローマにどのように '重なり合って' 「存在」しているかは、透明な状態にある。
 これら両者が比較されると初めて、
クレアトゥーラがプレローマに '重なり合って' 「存在」しているか、そうでないか、その差異が知覚されるのである。そして、その差異こそが、普段は透明化しているクレアトゥーラがプレローマの世界に '重なり合って' 「存在」していることの知覚であり、それが展示において可視化されるということなのである。


*位相(言語学):
日本言語学において用いられる。その言語を、どういう集団がどういう場面で使うかによって異なる、言語の様相。
*位相学的領域(the topological domain):
バレーラ/マトゥラーナが「オートポイエーシス」(1980)で示したオートポイエーシス・システムの定義に登場する語。
システムが「存在」する領域についての表現。ここではこの言葉に対する自分の解釈を書いた。



 4: If the painting looks ornate or decorative,
   relating to Folk Art is that a problem?
  あなたの絵画がフォークアート(プリミティブアート)と関係しながら、
  飾りたてるように、あるいは装飾的に見えるとしたらそれは問題か?

 本来、民俗的なモチーフは私の意図するところではない。むしろオートポイエーシスといったシステム論や、生物学的な有機構成を参照しながら、人間の学習のプロセスを作品化することが主要なコンセプトである。学習とは "行動の変化ついて" である。
 この作品の表面の描画されたパターンは、連続性の中に差異を生み出し、時間発展とともに変化を現出してゆく。インドなどのフォークロイックな作業と内実は大きく異なり、装飾的なパターンが反復され、それらが表象されるのではない。この点を強調しておきたい。しかし仮に、学習プロセスの対象化と、民俗的な容姿が関係して見えるということであれば、それは結果的には大変興味深く、今後検討する価値があるようにも思う。
 ただ実際問題、素材の変更や、紐を編む部分を無くすことによって、民俗的な雰囲気は相当程度抑えることができる。「織る」代わりに、ドローイングによって描画領域を指定しながら、壁面に直接描画する方法を実践したかぎりでは、そのように思われる。


 5: Conceptually where does the work fit in terms of paintings recent history?
  コンセプト上、その作品は近年の絵画史においてどの地点に位置するか?

 絵画史との関係

 一つの絵画史の源流を起点に、それとは全く異なる新たな科学の認識論に基づいて、「行為 - 環境条件のシステム」として自己組織化する絵画を提示する。
 その起点には、1968年フランスのシュポール/シュルファス(Support / Surface)や1960年代アメリカのミニマリズムの作家達 Sol LeWitt (1928 - 2007), Robert Ryman (1930-), Frank Stella(1936-)のような絵画と、その素材、形式の純粋化がある。ここでは絵画の支持体や形式に焦点が置かれ、それを作品として対象化するような諸動向が見いだされる。「絵画とは何か?」という問いに対して、支持体や形式といった観点から答えが与えられたのである。しかし、ここにはまだ依然として、主体と客体、あるいは作家と作品といった切断があり、行為というパースペクティブは導入されていない。

 アートとサイエンス

 ところで、ある時代の科学の認識論と絵画が結びついた例は絵画史の中でもいくつかある。
 例えば、かつて19世紀末にジョルジョ・スーラを初めとする新印象派(neo-impressionism)は、ゲーテの色彩論に依拠し、その時代の科学と結びつきながら、その認識論を筆触分割(点描)という方法論として実践していた。私もそれと同様に、この時代の科学と関係しながらその認識論を作品として現し、行為というパースペクティブを作品に導入するだろう。
 具体的には以下のような1980年前後に登場してきた全体論的世界観に依拠した科学の諸理論や書物がある。
G.ベイトソン「精神の生態学」(1972)、「精神と自然」(1979)、J.ギブソン「生態学的視覚論」(1979)、バレーラ/マトゥラーナ「オートポイエーシス」(1980)、そして、アメリカで始まった複雑系科学や人工生命の研究。
 これらは80年代から起きてきた新しい科学であるが、90年代半ばには積極的に日本でも翻訳され、広く一般にも紹介されるようになった。J,ギブソンの概念は「アフォーダンス 新しい認知の理論」佐々木正人(1994)、オートポイエーシスは「オートポイエーシス 第三世代システム」河本英夫(1995)などがあげられる。また1996-7年には複雑系を紹介する書籍が多数出版されている。私はこの時期以降を中、高、大学生として過ごし、これらに強く影響を受けている。

 全体論とは、要素に還元されない系であり、全体の振る舞いとして世界を捉えようという世界観である。これは対象を要素に分解して理解しようとする伝統的な近代科学の還元主義に対立する。全体論的世界観の始まりの一つは、量子力学の「不確定性理論」や「観測問題」によって、その観測対象に対して影響を及ぼさない観測が原理的に不可避であることが示され、主体と客体を分離する「近代的な客観」に疑問が投げかけられたことによる。

 また、J.ギブソンは「生態学的視覚論」(1979)で、
主体と環境の関係を新たに提起した。彼の新しい概念「アフォーダンス」とは、生物のある行為を誘発するような、モノや環境のある特定の状態や条件、性質のことである。
 例えば、ある高さのバーを思い描いてもらいたい。それを人が前にしたとき、「またぐ」だろうか、「くぐる」だろうか?このとき、「またぐ」か「くぐる」かという行為を "アフォード" (誘発)するバーの高さの値は、その人の身体的な特徴と関係しながら、一定の閾値として導きだすことが可能なのである。ギブソンは行為と環境の関係について、人がそのつど判断して行為を選択しているのではなく、あくまで、その行為を引き出す情報が環境に存在していると主張するのである。

 私はこのような理論や書物に依拠して、「行為 - 環境条件」の相互作用というように、切断のない全体として捉えるパースペクティブを、絵を描く主体においても適用したいと考えている。そのような全体論的な観点においての「絵画」には、もはや対象を描く主体と客体という分離した関係は意味を成さないだろう。
 そうしたパースペクティブを踏まえて「絵画を制作する」とは何か?という問いを立て、「行為 - 環境条件のシステム」として自己組織化するのである。


6: How can I develop and more the forward?
  どのように発展し、前進することができるか?

 自らの作家としての、また現段階の作品の、発展と前進をどのような方法によって導いてゆくか。
 それは大きく二つの方法によって成されると考えている。

1:自らのこれまでの領域での経験や知識に留まらないように、領域横断的に試行錯誤し経験する。

 生物の進化とは突然変異を含むランダムで確率論的なプロセスである。集団遺伝学では、仮にある個体群において、個体差がなく、均質で遺伝子の構成に多様性を持たない場合、進化のプロセスが発生しないことが認識されている。どんなに新しいものも、ランダム性、偶然から生まれる。個体群の中に多様性が存在しなければ、自然選択の対象となるべきいかなる新しい行動も遺伝子も器官も生まれない。どんな種の個体群も、野生の状態では、その遺伝子の構成にきわめて多様な個体差が見られるのである。そして、そうした不均質こそが、変化の可能性を生み出す条件である。作品制作においてもこのランダム性(行動の多様性)が重要であると考えている。

 "新しさ"と"強さ"

 作品において、"新しい" と "強い" は意味が異なる。
 "新しい" というのは、"未知である" ということと同義であるとみなすとして、であるならば、既存の表現形態には回収されえないはずである。「未知なもの」が創造される過程には、「未知である」がゆえに、必ずある種のランダムさ(行動の多様性)が必要になってくる。多様な行動群の中から、ある行動とある行動が偶然的に組み合わせられて、既知の形態に回収されない「未知さ:新しさ」が生まれるのである。ごく初期の進化の過程で起こったカンブリア爆発を思い浮かべるとよい。
 しかし当然、この "新しい" が全て "強い" とは限らない。むしろ「 "新しい" しかし "弱い" 」ものがたくさん生み出され、そして自己の判断や社会の評価という環境において、強化あるいは淘汰されていく。つまり、そうしたプロセスを経て、生き残るもの、それが "強い" ものである。この試行錯誤は、「"新しい" かつ "強い" 」ものを生まれてくるために欠かすことができないと考えている。ただし、自身のキャパシティに合わせて行動の領域を注意しながら設定する必要はある。その上で意図的に行動領域を広げてみることは大事である、と私は強く信じる。

 具体的には、ビデオ作品など他メディアでの制作、論文、キュレーション、科学などの他領域の人達との対話などを実践してゆく計画である。

 京都芸術センターでは、自分の企画・キュレーションで展覧会「TRANS COMPLEX」を開催する。
 この展覧会は彦坂敏昭と村山悟郎のグループ展で、ここまで説明した新たな認識論を背景にしている。複雑系科学者の池上高志氏と美学・芸術学の吉岡洋氏を招いてシンポジウムも開催する。これらを通して、鑑賞者の方々と共に多くの刺激ある思考を紡いでゆきたいと考えている。
 そして様々な分野の方々との対話を通して、自分と他者の思考の差異を認識してゆく作業を進める。この彦坂敏昭くんとの往復書簡もそれにあたる。バイリンガルの展覧会カタログも発刊予定。カタログでは私の作家論/批評を中島智さん(芸術人類学・武蔵野美術大学、慶応義塾大学兼任講師)にお願いする。中島さんとの対話も始めたところである。
 このような実践的なプログラムに身を浸すこと。そしてイギリスで作品および理論を研鑽し発表すること。出来るだけ多くの地域、分野、ジャンル、メディアを横断してゆきたいと考えている。ビデオ作品は友人でありアーティストの小沢祐子さんとのコラボレーションとして構想し始めたばかりであり、まだ対話しながらアイデアを練っている段階にある。

2:自身と他者からのフィードバックを作品に反映させること

 デクスターから指摘を受けた作品の具体的な方向性について。

・作品の民俗的な容姿の意味を検討する、あるいはそれからの脱却を目指す。
・自分と同様の思想的背景を持つアーティストをメディア・領域を問わず広くリサーチする。

 自分としてこれから検討したい作品の発展形。

・建築("建築する" という行為。建築空間ではない。)との関係を動的に思考すること。
 現在の作品のさらに上位の論理階型に位置する"何か"との競合、キュレーションもその一つ。
 有機的な「建築と行為のシステム(作品)」の関係を探る、など。

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 長くなりましたが、ひとまず以上です。読んでくださった方ありがとうございます。未編集な部分、冗長な部分など多々あると思われますが、ご容赦ください。それとベイトソンの学習理論について説明不足ですので後ほど補足したいと思います。何か不明な点がありましたらご指摘いただければ幸いです。

村山悟郎


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