2011年4月5日火曜日

普遍化への意志

            普遍化への意志


 – TRANS COMPLEX 情報技術時代の絵画:彦坂敏昭・村山悟郎

                         

         2011年2月6日(日)14:00- 16:00 京都芸術センター

                      吉岡 洋(よしおか・ひろし)


 展覧会タイトルには「情報技術時代の絵画」とある。この表現は「絵画表現の最先端」といったことを連想させるかもしれない。現代生活にはその隅々まで情報技術が浸透している。平面の支持体に絵具で描くという、元来きわめてアナログな行為である絵画もまた、そうした現代的状況に目を背けるべきではない。そうした動機から、彼らは情報技術の基盤であるルールやロジックを、絵画制作の方法論として取り込んでいるのだと、解釈されるかもしれない。けれども、私はそのように理解していない。そのことを説明してみたい。


 モダニスト的な理解において、「絵画」とは究極的にはひとつのメディウムである。「絵画」からその歴史的・文化的な偶然的側面を除去してゆくと、純粋なメディウムとしての「絵画」が析出される。その純粋化の試みは1950年代の抽象表現主義(Abstract Expressionism)において頂点に達した。その後は、メディウムの複合化が進行する。そして「絵画は死んだ」(もともとは19世紀フランスのアカデミーの画家ポール・ドラローシュ[Paul Delaroche, 1797-1856]が写真の登場に対して述べた言葉)とも言われたが、そんな簡単なことではない。絵画は1980年代には「新表現主義(Neo-expressionism)」として復活する。また2005年にサーチ・ギャラリーは「絵画の勝利(Triumph of Painting)」を開催する。


 現代美術というシステムは、放っておくとコンセプチュアルなものが暴走する傾向がある。その中にあって絵画は、直接的な視覚体験を回復させるものである。だがそうした絵画とは、もはやモダニズム的なメディウムの純粋性の探求ではない。絵画に限らず、メディウムの固有性が意味を失った現代的状況は、ロザリンド・クラウス(Rosalind E. Krauss, 1941-)の言う「ポスト・メディウム」(”post-medium”)という概念で一括される。こうした状況下では「絵画」とは、ある作品がたまたま制度的に分類されるラベルにすぎないものにみえる。どのような作品の中にも複数のメディウム(つまりメディア)が並存しており、したがってある意味で、すべての芸術は「メディア•アート」なのだとすら言えるかもしれない。


 情報技術との関係に注目してみよう。情報技術を通常の意味で芸術表現の手段とするのが(普通の、狭い意味での)「メディア•アート」である。それに対して彦坂・村山作品はいずれも、情報技術に関わる論理的手続きを用いているが、「メディアアート」ではない。彼らにとって、その作品が「絵画」であるということは、本質的に重要なのである。だがそれは、「ポストメディウム」以前の、モダニスト的な純粋メディウムへの回帰でもなければ、現代美術というシステム内部において、視覚表現の直接性を回復する安全弁としての「絵画」でもないように思える。では、それらが「絵画」であることの意味は何か?


 私たちは今、絵画を「メディウム」や歴史的に形成されたカテゴリーとしてではなく、むしろ「描く」という人間の原初的行為や、図像的なものによる世界認識一般にまで拡張して考えることができるのではないだろうか。絵画の近代的意味を突き抜け、そうした人類学的なスケールにまで絵画を普遍化すること — そこに情報技術と芸術との真の関わりがあると思える。この意味での絵画は、ヴィレム・フルッサー(Vilem Flusser, 1920-1991)の言う「テクノ画像(techno-image)」に通じるものである。芸術にとっては情報技術それ自体が重要なのではない。本展示「TRANS COMPLEX」において作家達が関心を持っているのは情報技術そのものではなく、「セル・オートマトン」のような、単純なルールの反復によって予測不能の複雑なパターンを生み出す手続きである。複雑系科学は「自然」や「生命」についての理解を刷新することを通して、芸術や人文学にとっても重要な洞察を与えているのである。

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