2010年5月21日金曜日

005_彦坂敏昭→

村山さま

 荒川修作さん、お亡くなりになられたんですね。ご冥福をお祈りいたします。

 台北にて僕があたった食べ物は、地方の小さな屋台の芋肉饅頭(?)でした。街中で普通にお金を出せば、安心美味な料理をたくさん食べれます。初日と2日目に連れていってもらったお店は一人2000円~3000円程で満腹フルコースでした。かなり美味しかったですよ。また行きたいです。

 今回はYOUNG ART TAIPEIにAISHO MIURA ARTSから参加することが主だったのですが、その他にも故宮博物院で山水画を見ることもスケジュールに入れてありました。ちょうど企画展をやっていた訳ではないので、故宮博物院では山水画を4点程しか見れませんでしたが、それでも自分のやってきたことを再確認できて良かったと思っています。


補足とお返事

 さて、前回の補足ですが、少なくとも僕は、結果としてその決断が失敗だったとしても、その失敗を作品の中に包摂したいと思っています。

 決断に関する「拠り所」、難しいですよね。これは人間にとって答えの無い問いかもしれないな、とも思います。

 アーティストはどんな破天荒な方法論を獲得したとしても結局はそれを実践しなければいけないという大きな壁があります。この壁を超える為に、強度のある「私的な動機」=「拠り所」を持っている必要があると思います。
 それは単純にごくごく個人的な事柄であり、常に変化し、消えたり、出てきたりを繰り返す幽霊的なものだとも思います。

「心なんてものは無い。もしあなたが心を持っているなら今すぐそこの窓から投げ捨てなさい。(荒川修作)」

 その時にこの言葉は、核心を捉えていると僕には聞こえますが、逆にこの「心」が不確かで移ろっている感覚って(あいまいとは別の意味で)、結構大切なんじゃないかなと思ってます。
 瞬間的な強度のみを持った、不確定な拠り所の総体でのみたどり着ける場所があるのではないかと。それにしてもこの講義面白いですね。


うつしとる

 少し話はズレますが、僕は、目の前にただ在る状況を1枚の画像として提出さえできればと考えているところがあります。ですが、目の前にただ在るこの状況は、思った以上に複雑で、見えない部分も含め、いろいろな問題や秩序がうごめいています。この移ろい続ける世界を右から左へと順にそのまま描き写していくのか。それとも、この移ろい続ける風景が泡立つように画面に出現してくる方法論を発見するのか。そう考えた時に、今は後者を選んでいるのですが、前者からのアプローチも考えてみると面白いかもと思いました。

 こうすればきっと上手くいくという感覚が制作においてもあると思うんですがどうでしょうか?しかも経験的知とは無関係にです。

 もちろんそういった感覚があります。描くことをひとつの技術として考えています。なので、人から見て同じようなことを繰り返しやってはいますが自由度の高い中で難破しながらもコントロールをしています。
 例えば「芥子園画伝(かいしえんがでん)」という中国・清代に書かれた技法書があって、これには山水画の皴法や心得が書かれています。やはりはじめはこの教科書を見ながら描くのですが、しだいに教科書を見ずに描けるようになります。それで初めて技術が身についたということになります。あった方がいいけど、無くなった方がさらに良いと言う事です。
 また、西洋遠近法を用いて書かれた作品をみていった時にも、要素の数と、要素間の関係性の結果で、現れる絵画空間がことごとく変化していくこと感じます。要素は無限にあるので、どのくらいの量の要素をどの程度意識的に問い立てし、選択できるのかというのが問題になってきます。
 それらの意識の幅や量をどのようにコントロールするかが技術であって、あくまでも「絵画」はそれらの結果としての産物をいいます。

 でなければ説明のつかないことが自分の制作にも多すぎる様な気がするからです。例えば、資生堂の展示については、審査員の方々から少し予定調和感がある、あるいはスタティックなシステムでないかという批判があったんです。
 簡単に言うと部分的な仕事をしているはずなのに全体として調和して見える、展示が軸を持っており無難、というようなことなんですが、それは確かにそうかもしれない。

「飾られ見られることが前提としてあった」ということでしょうか。


彦坂 敏昭

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