彦坂さま
台湾お疲れ様でした。食中毒はもう良くなりましたかー? 養生してください。台湾料理ってメッチャ旨いですよね!台湾へ行って食べてみたいですが、食中毒と聞くとさすがに、、ちょっと恐いな。
予期
決断の「拠り所」難しいですよね。これは人間には答えの出せない問いかもしれないと思います。
人間には"決断する"ことが可能に見えます。アーティストも不断にこれを行っていて、作品の完遂に大きく寄与していると思います。ならば一体、その決断とは何か?
僕はそれを、「決断-結果」から蓄積された経験知と学習のプロセスによるものである、と言うだけでは不十分だと思っています。なぜなら、決断すべき状況はその都度で更新されていて、経験知が反映できる状況は常には存在しないからです。でなければ説明できないことが自分の制作にも多すぎると思っています。
例えば、今年3月の資生堂ギャラリーでの展示について、審査員の方々から作品生成に少し予定調和感がある、あるいはスタティックな展示ではないかという批判があったんです。
「最終形からの逆算で生まれた作品ではなく、ルールの適用が偶々とった形という不定形性・流動性のある作品であると思われるにもかかわらず、かなり予定調和的あるいはスタティックな展示になっていたことなど、展示については、構築しきれていないのではないか。」(shiseido art egg vol.4 展覧会カタログより)
僕の作品制作のシステムは行為を局所的に反復し、その集合として全体が構成されています。ですが、その全体は意外に調和して見えると言われる。あるいは展示が軸を持っており無難に見える、というようなことなんですが、それは確かにそうかもしれない。同様の指摘を、奥村雄樹さんや府中市美術館学芸員の成相肇さんからも受けました。
そこで「予期」のような、未来の事象に関する諸感覚を考える必要があると思ってきました。例えば、「こうすればきっと上手くいく」というような感覚が制作においてもあると思うんですが、どうでしょうか?しかも経験知とは無関係と思えるようなものとしてです。これを制作プロセスに当てはめて言うと、制作環境をふくめ、システムが明確に局所的構成によって成り立っていたとしても、その局所において「予期」が介在することによって、全体を調和させてしまうということではないかと思います。
荒川修作さんについて
話は変わりますが、昨日(5月19日)、荒川修作さんが亡くなりましたね。僕にとっては尊大な芸術家であり、尊敬していましたので、ショックが隠せません。
僕が芸大で二年生だったとき(2006年)、荒川さんが芸大に来たときがありました。茂木健一郎さんの美術解剖学の講義のゲストとしてです。講義の内容はホントにぶっとんだアジテーションでした(普段はとても優しい方だそうです)。そんな中でも特に印象的だったのが、ある学生との問答です。
荒川修作 東京芸術大学講義 『噴火し、遍在せよ』(2006.5.1) 音声(MP3)
http://nozawashinichi.sakura.ne.jp/mkpc/2006/05/post-80.html
(以下:東京芸術大学美術解剖学特別講義 2006.5.1より抜粋)
学生:荒川さんは、複数とかって言ってますけど、お母さんとかいっぱいだとしたら、
奥さんもいっぱいじゃないですか?
荒川:そうだよ
学生:でも一人じゃないですか
荒川:うん
学生:あの結婚生活にも、何か、、。
荒川:なかなかイイ質問だよ。君が言ってる言葉には一つも現実のものがない。
だから君だけじゃなくて僕もだよ。
それと現実というのは、一つの現実というのにはね、あなたの行為が出来るだけある。
わかる?
学生:心を込めて?
荒川:いや心なんて、、、心なんてゴミ溜に捨ててこい。
心とか精神とか魂なんてものは早く今この窓から捨ててくるんだよ!
もう絶対に言っちゃいけないよ、ね。
生物物理学者でネイルス・ボア(Niels Bohr 1885 – 1962)っていう人が日本に1927年ぐらいに来てるんだよ。
物理学者に呼ばれて、恐らく湯川さん達に呼ばれて来たんだよ。
そして講義をする前に、みんな富士山、富士山って言ってるから、
富士山の写真を撮りに行ったんだよ、一人で。
それで、富士山の写真をバチバチって何百枚って撮ったんだよ。それで現像に送ったんだよ。
それで何千人っていう科学者の前で「これ何だか分かるか?」って言ったら、
170枚見せたけどそれが富士山だっていうのを言った人、一人もいないんだよ。
わかる、それ?
富士山の頂上を見てバチって撮ったの。したら、こういう写真がいっぱいある、な?
これ全部富士山でしょ?
それを彼はこれ見せて、誰もそれが富士山だっていうの分からなかったから、
「実はこれは富士山です」って言ったらみんな笑ったらしいんだよ、嘘いってると思って。
で、彼はその位置を示したんだよ、どこに立って写したか。
そしたら「あぁ〜そう言われてみれば」っていうんだよ。
現実っていうのはそれほどあるんだよ。
全部Truthなんだよ。真実なんだよ。
じゃあどうして私が今500人の荒川がいておかしい?
わかってるね?
学生:じゃあ、奥さんもいっぱいいるんですか?
荒川:そうだよ。
学生:一人一人が荒川さんとちゃんと結婚してらっしゃるんですか?
荒川:いや、結婚っていう、その いいか?
おぅし、ちゃんとじゃあ一つずつやろう。
共同を、共同性を見たり、共同っていう、
一つのテリトリーを持ち始めると、
じゃあ奥さんもたくさん、あなたもたくさん、
結婚なんて、結婚って君、何かイメージがあるか?
一緒に住む事か?こうやって。
学生:愛っていうか、心からちゃんと
荒川:心捨ててこいっていっただろう!(一同、笑)
学生:心を捨ててー、例えば富士山だったら、富士山の、富士山と呼ばれる
何か私というか個人みたいなのが荒川さんにちゃんと満足を求めるというか。
荒川:それが全部ない。君が言ってるのはおかしんだよ。
あのな、「私ねって」、っていうだろ?
僕がこう「私」って言ったとき、「私」っていうのが何千って出てくるんだよ。
それが証拠にな、誰かここで、音を感知できる機械を発明したヤツが、
僕が今、「私ね」って言ったら、どこに落ちて行くかを調べてくれるっていうんだよ。
何億って、落ちてくるんだよ。
君のいるとこにも、ここにいる人のなか全部に入っているんだよ、まず。
それから、この机の上にいくんだよ。
しかもその机の上におりて行った僕の声はな、
ドン!(荒川さんが机を叩く音)
こんな時に出て来たりするんだよ。
そしたら、「奥さまとね、結婚したでしょ?」
なんて言ってる君の文章は、全部、おかしいんだよ。
ひとつずつやってってあげるよ。いいか?
主体とか、私とか、あの人ね、なんていうのは何の意味も無いけど、
みんな分かったようなフリしてるだけなんだ。
学生:ありがとうございました。
荒川:Good!
最初は驚きましたが、この講義にはホントに勇気づけられました。「心とか精神とか魂なんてものは早く今この窓から捨ててくるんだよ!」という言葉は生涯忘れられなくなってしまいました。彼の作品がそれを裏付けてくれます。観ることの認識と認知に関わる諸作品、意味のメカニズム、身体感覚を揺さぶる養老天命シリーズ。そこには心という精神的閉域みたいなものはない。作品と対峙する人間、環境と人を含めた眼差しは一貫していますね。そしてそれは僕の目を開かせるのに十分でした。
僕はまだ、「鑑賞」を作ることは放棄しています。展示の中で生成と鑑賞をどう結びつけるか、その理論的構築が上手くいかないからです。「鑑賞」を作ろうとすると、ただちに生成はそれに従属してしまいます。ですから、先ずは生成の自律性を現すところから始めたいと考えています。
しかし尊敬する荒川さんに倣って、いつかは観客の鑑賞を揺さぶる展示を作りたいな、と考えてもいます。先ほど述べた「予期」などの未来への諸感覚は、その大きな鍵になるのではないかと見ています。
村山悟郎
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