2010年5月18日火曜日

003_彦坂敏昭→

村山さま

確かに最近は暖かくコンビニでもホットのコーナーからはずいぶん足が遠のいていますね。
12日から台湾。日本より少し暖かかったです。
16日に食中毒(?)に。。。
17日に帰国しましたが、体がなかなかうまく動きません。。

 さて、前回の続きで決断を下すための(決定的な?)「拠り所」についてですが、考えれば考える程、思考が追いつかずに泥沼にはまっていきます。。
 良い機会なので、じっくりと現行の作品を補完する為の文章にならないようこれからのために自分のやっていることを反芻しようと思います。ですので、時間がかかってしまいますが、ご容赦ください。


拠り所の偏在

 少し砕いて考えてみます。「決断」の前に必ず「問い立て」があります。どういった問いを立て、その問いにどう答え、決断をするのか。ということです。さらにはその前に「検索」がおこなわれています。これは問いを立てる場を決定するためにです。
 
「検索」→「問い立て」→「決断」とプログラムが走って行きます。

 さらに、それぞれに対して何をもって、何によって、「検索」され、「問い立て」られ、「決断」されたのかが重要になります。
それがここで言う「拠り所」というものにあたります。


ポジショニングの反射神経

 僕はインターネットやファミリーコンピュータが生まれたとされる年に、一般的な中流家庭の次男として生まれ、国道沿いの大きくも小さくもない町で育ち、小学4年生から高校3年の9年間は、ほぼサッカーだけをしていました。
 今考えると、そこでの感覚は大きなものとして今でも心と頭に残っています。自分があるゲームの中でどのような役割をまかされており、どこにいて、どちらを向いて立ち、どのように振る舞うと、ゲームがどういう状況になるのかを、9年の間、延々とシミュレーションし、ポジショニングを体に覚えさせてきたともいえます。
 その結果、思考回路がひとつの筋肉のように鍛えられ、良い意味でも悪い意味でも、今になってポジショニングの反射神経として染み出してきてているのです。
 日常のあらゆる場面で、所在(ポジション)が無いと極度の不安に襲われ思考停止状態に陥ってしまいます。ですので、常に自分の役柄を探し求めてしまいます。
 制作においても、常にアーティストを演じているのでは?という意識が強くあります。


マルチな経緯

 そして先の拠り所とあわせて考えてみると、常にマルチな経緯や要素から構成されるということがとても大切だと感じています。「経緯」という言葉をよく見ると、その語意は緯度と経度という言葉から生まれていると感じられます。それは、決してリニアなものではなく、マルチなものによって物事が進んでいくということをよく表しています。

 オーストリアの科学哲学者であるオットー・ノイラートも下記のように述べています。われわれは、乗船中の船を大海原で改修しなければならない船乗りの様なものである。一から組み直すことなどできるはずものなく、梁を外したら間髪入れず新 しい梁を付けねばならないし、そのためには船体の残りの部分を支保に利用するしかない。そういう具合に、古い梁や流木を使って船体全てを新しく作り上げることはできるものの、再構成は徐々にしかおこなえない。
 マルチな経緯によって微調整をすることで全体像を掴むという方法論です。
 ですので、制作における「拠り所」ももちろんマルチに存在している必要があると考えています。それらは結果においてのみ、1つの全体としての「決定的な拠り所」となり、画像を出現させます。
 ある一つの決定的な要素によってではなく、1つ1つは何ともない(分解してそれぞれを取り出すことのできないが。)要素郡から、
決定的な(拠り所の)総体をみることができると考えています。

つづくかも。

彦坂敏昭

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