2010年5月22日土曜日

006_村山悟郎→

彦坂さま

 荒川さんにはいつか作品を観てもらえたらと思っていたのですが、かなわぬ夢になってしまいました。残念です。


 彦坂くんの作品は中国の水墨画や山水画からも影響があるのですね。

>絵を描くことをひとつの技術として考えています。(彦坂)

 この技術という言葉はそれらと関係しているものですか?「技術」についてもう少し詳しく聞かせてほしいです。


 
「心」について

 荒川さんの言葉がどういう文脈と意味で語られたか、今となっては本人に伺って確かめることの出来ないものになってしまいましたから、ここからはその言葉を受けて僕の考えたことを書いてみます。

>僕はこの「心」の不確かで移ろっている感じって
(あいまいとは別の意味で)、結構大切なんじゃないかなと思うわけです。(彦坂)


 もちろん、その通りだと思います。精神や意識の複雑さ、そのゆらいでいる感じはもちろん重要ですよね。それには、まず「心」は、それ単体として語られるべきものではなく、周囲の状況や環境、文脈と関係しながら存在するプロセスそのものだと考える必要があるのではないかと思うのです。
 人間の知覚の研究で、全ての感覚器に刺激が入らないように遮断する感覚遮断実験というのがあります。被験者は目や耳を塞がれ、全身を包帯で覆われて、綿がしきつめてあるベッドにただ寝そべっているよう指示されます。被験者は実験を開始して数時間を待たずして気が違いそうになり、耐えられなくなってギブアップしたそうです。
 ここから伺えるのは身体の感覚器と精神過程が密接に結びついていることです。何もしていないようにみえる状態であっても、"常に既に"人間は周囲の環境と相互関係にあると考えられます。
 そう考えたときに、喜怒哀楽といった単純な心情を関係や文脈から切り離して「もの」の様に扱い、それを「心」と呼ぶことの不毛を感じます。そういう意味から、「あなたがまるで「もの」のように捉えている"心"だから、それが可能ならば、窓の外に投げ捨ててみせろ」と言っている様に思えました。
 決断にも同じことが言えるんじゃないかなと思っています。同じ精神過程の出来事ですから。

>この移ろい続ける世界を右から順にそのまま描き写していく(彦坂)

 そういう意味でもこれは気になりますね。面白そうです。


村山悟郎

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