針生さんもお亡くなりになられたんですね。時代が大きく変わっていくというということなんでしょうか。。ご冥福をお祈りいたします。
アートフェアお疲れさまでした。
彦坂さんの作品は中国の水墨画や山水画とも関係、
あるいは影響があるのですね。
僕は中国山水画にも強く影響を受けています。日本でいうと初期狩野派や曾我蕭白などの作品です。それから、僕の祖父が書家でもあるので(今はもう書いていませんが)、墨は比較的になじみのある素材でもありました。
>絵を描くことをひとつの技術として考えています。
この技術という言葉はそれらと関係しているものですか?
「技術」についてもう少し詳しく聞かせてほしいです。
中間的な技術
僕の言う「技術」というのは、村山さんの言う「学習」ということと比較的に近いものと考えています。あるシステムがあり、その中で、ルールやプログラムが存在し、それらが運用されます。僕の場合は、ルールやプログラムをどのようなスタンスで運用するのかという問いに重きを置いています。
例えば将棋の世界でも、一般に共通のルールでやっているにもかかわらず、プロの棋士が外から観戦した場合にもかかわらず、なぜそんな手を打ったのか、現状がどういった局面なのかをまったく理解できない状況に出くわすことがあると聞きます。通常であれば、指し手の原因とそれに伴う結果が予測されますが、将棋を指している2人以外にはまったく理解不能の局面に突入するケースです。
将棋の技術には、駒の属性と効果や各場面での扱いに対するミクロな技術と、全体論的な、どのタイミングで勝負に出るか、それとも今は守るべきなのかを判断する大局観というマクロな技術があります。先の対局での状況は、新たに異なる視点での技術が運用されていると感じます。
僕の考えているのはこのミクロでもマクロでもない中間的な技術(?)についてです。
一般的な共通ルールの使用範囲を超え、この技術によってルールは宙づりの状態で運用されることとなり、結果的に(技術や学習の差が原因で)当事者以外には理解不能な景色が出現する。通常のルールの中にいるのに、ある視点の技術でもってそこから解放されるやり取りってすごく美しいなと思ったんです。
そうなると今度は自分もどうにか景色の中に入ってみたいと思ったんです。
中国絵画や日本の近代以前の絵画にもこの中間の技術が現れていと感じており、タイミングさえあれば、実際に観るように心がけています。
「心」という言葉は面白いですね。
これまであまり思考の中心に据えてこなかったので新鮮な感じがします。
でおもいだしたのですが、先日お話していた影響を受けた本は下記です。
『心はプログラムできるか-人工生命で探る人類最後の謎-:有田隆也』
(サイエンス・アイ新書)
彦坂敏昭
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