2010年7月5日月曜日

009_村山悟郎→

 先週の公開プレゼンテーションお疲れさまでした!展覧会にむけて、往復書簡を再開したいと思います。

 先日のプレゼンテーションで「作品は展示場所に帰属するか?」という主旨の質問を、審査員の長谷川祐子さんから頂きました。そのときに僕は「サイトスペシフィックの考えにはアンチの立場です。」というような回答をしたんですが、それについていくつか反響がありました。ですから先ずはそのことから出発して、作品の自律性を考えてゆきたいと思います。


 
アンチ・サイト

 そもそもサイトスペシフィックとは何かという話ですけれど、定義としては「美術作品が特定の場所に帰属する性質」というものだと思います。1970年頃のランドアートやアースワークスに起源を持つ、と僕は認識しています。
 ロバート・スミッソンの「Spiral Jetty」(1970)にその鋳型を見ることが出来ますね。「ここでしかできない」という特定の場に帰属する形式の作品です。当時の時代背景から言って、特権的な美術館やギャラリーといった場に対するオルタナティブとして、これが成立したと思います。
 またスミッソンは、作品が場に帰属する作品を「サイト」、どこでも展示が出来る絵画や彫刻を「ノンサイト」と分類しました。けれども、僕にはその考え方には問題があるように思えます。
 なぜなら、絵画や彫刻もどこにでも展示ができるものではないからです。例えば美術には歴史があって、コンテクストがある。美術館やギャラリーにはそれらが付与されています。絵画や彫刻といった伝統的な芸術形式はそれらとは不可分であり、ホワイトキューブに置かれることに重要な意味がある。だとすれば絵画や彫刻にも、そうした特定の帰属する場があると言えるのではないでしょうか。
 ホワイトキューブという漂白された空間ですら、こうしたコンテクストを負っている。それは逆に、絵画や彫刻といった一見すれば「ノンサイト」な形式をとる作家にも、その場と作品との関係性が常に問われていることを意味しています。ですから、サイトスペシフィックが開示したのは、単に作品の特定の場への帰属的在り方ではなくて、むしろ、全ての作品が何らかの形で場に帰属している、ということだと思います。

 
場の特殊性

 そこで一つ例を上げてみます。中村政人さんの「QSC+mV/V.V」という作品です。これは2001年のヴェネチア・ビエンナーレに出品されたものですね。マクドナルドのM字のトレードマークが引用し、そのマークを高さ三メートルはあろうかというサイズまで拡大して、ホワイトキューブに展示しました。この作品について、場との関係性という側面に注目してみると、ホワイトキューブの「場の特殊性」が見えてきます。
 ホワイトキューブとは表現が行われる場:メディアですから、もしどこかから何かを引用をすれば、ただちに権利の問題が召還されてきます。この作品を観ると、「こんなことをして著作権は大丈夫だろうか?」という疑念にかられないでしょうか。
 実際、この展示を実現するには大変な交渉があったと中村さんから聞きました。つまり、ホワイトキューブのような漂白された空間にも、実はそうした権利の問題が貼り付いているのです。この作品を展示することによって、そうしたホワイトキューブの「場の特殊性」が示されたわけです。
 先ほど述べたとおり、展示には常に場の関係性が内包されています。更にそこから展開して、サイトスペシフィックの論法がホワイトキューブに適用されることが起きてきました。つまり展示することによって、その「場の特殊性」があらわになるものへと、場の関係性は移行していったと思います。

 しかし、この場の概念にもまだ先があるんじゃないかと思っています。既存の空間に対して展示として仕掛ける、場の関係性を作り、「場の特殊性」を引き出す、というのはわかります。ですがそれは場に対する観念的な認識:静的な洞察によるものではないかと思えるのです。
 場は不動ではなく、動いている。それを捉えてやることは出来ないか?すなわち、場を観念的、空間的だけでなく時間的な眼差しで見てやること、それを試みたいと考えています。

次回に続けて、書いて考えてみたいと思います。

村山悟郎

0 件のコメント:

コメントを投稿