2010年5月7日金曜日

001_彦坂敏昭→

村山さま

 お元気ですか?
 2週間程前に展覧会を一緒にしませんかと村山君からメールをいただいて、あれこれ考えはじめています。ひとまず、展覧会開催に向け、この往復書簡でそれぞれの問題や意識を共有し整理できればと考えています。ですので、まずは僕の「はじめの話」からしてみたいと思います。


砂山を崩す遊び

 幼い頃に公園の砂場で「砂山崩し」をした記憶があります。砂で大きな山を作り、そのてっぺんに木の棒を指します。何人かで順番にその砂山の砂を削りとっていき、最後に砂山が崩れ棒を倒してしまった人が負け。といった遊びです。このゲームの終盤では、棒が倒れてくる予感を皆が共有しはじめ、慎重に砂を削り取るようになっていきます。砂山は少しずつ形を失い、ある臨界に達した時に崩れ、棒が倒れ、この一瞬で砂山は砂へと戻っていきます。そして同時に、その閉じられた遊びの場が一瞬にして世界に対して開かれる現象を伴います。まさに我に帰ると言った感じです。
 このゲームの一連の流れを別の角度から見てみると、砂山は砂山である為の「決定的な何か」を内包し、その「決定的な何か」が最後の一手と共に削り取られることでゲームオーバーとなります。


決定的な何かとルール

 その決定的な何かとはいったい何なのか。
 また、それが何なのかを解れば、それを応用し、砂山のバリエーションを作る事ができるのではないかなどとぼんやり考えていました。はじめは「ルール」というより、削いでも削いでも削ぎきれない「決定的な何か」に興味があったようです。その物や事を構成するいくつかの要素のうち、文字通りのかけがえのない部分・要素が何なのかに好奇心や想像力をかき立てられていました。そして、アーティストは、ある意味で、砂から砂山を作り上げるように、素材から素材以上の物を現出させる技術が要求されていると感じています。
 この漠然としたある一線を超えるには、何をどうしたら良いのか。僕自身、はじめにイメージが頭の中にあってそれを描き起こすことで、その一線を超えることの出来る人間ではないことはよくよく感じていました。そのため、真っ白なキャンバスと向かい合う時に、どうしても方法論が必要だったのです。それを今は「ルール」と読んでいます。さらにはそのルールの中で決断を下す際に、何を拠り所にして決断を下せばいいのかもという問いも大切な問題だと感じています。一線を超える為の決定的な方法論と、その中で決断する為の決定的な動機が必要だったのです。もちろん、それは同時に漠然としたアーティストに対する憧れからもはじまっているとは思いますが。。


彦坂敏昭

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